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日常開示

2022年07月15日    金曜日     第1 回の開示 合計3656回の開示

識蘊を正しく認識するには(一)

『持世経』原文:仏は持世に告げたまわく、いわゆる菩薩摩訶薩が識陰を正しく観察し選択することとは何か。菩薩摩訶薩は、陰にあらざるを識陰と観じ、倒錯の陰を識陰と観じ、虚妄の陰を識陰と観ずるなり。なんとなれば、持世よ、この識陰は倒錯より起こり、虚妄の縁によって繋がれ、先業より有り、現在の縁によって繋がれ、衆因縁に属し、虚妄にして所有無きが故なり。

釈:仏は持世菩薩に告げたまわく、菩薩摩訶薩が識陰を正しく観察し認識するとは如何なることか。菩薩摩訶薩は、識陰と称すべき陰は存在せず、識陰は所有無きことを観ずる。倒錯の陰こそ識陰であり、虚妄の陰こそ識陰である。何故かといえば、持世よ、識陰は倒錯心より出生し、虚妄の業縁に繋がれ、過去世の業より生じ、現在の業縁に属するが故なり。識陰が衆多の因縁和合によりて出生する以上、識陰は虚妄無所有にして空なる所以なり。

識陰の粗相の虚妄を証得するは無生忍なり。極細の相の虚妄を証得するは無生法忍なり。本来法無き中に、因縁力によって強いて識陰を建立するが故に、識陰は虚妄幻化の所有無きものなり。この理を容忍するは即ち無生忍あるいは無生法忍なり。

原文:憶想分別より起こり、識より生じ、識する所有るが故に、これを識と名づく。憶想分別の覚観より生じ、仮借によりて有り、識する所有るが故に、数を識と名づく。諸法を識するが故に、心業を起こすが故に、思惟するが故に、衆縁生相の故に、種々の思惟を起こすが故に、数を識陰と名づく。識する所有るより、識像の出づるあり、心業を示すが故に、思惟を摂するが故に、数を識陰と名づく。

釈:識陰は意根の憶想分別より生起し、阿頼耶識より出生す。識別の機能を有するが故に識陰と称す。意根の憶想分別の覚観より出生し、衆多の因縁を仮借して有り、識別の作用を有する故、五陰の数に堕ちて識陰と名づく。諸法を識別し、心業を生じ、思惟を起こし、衆縁和合の相を有し、種々の思惟を起こすが故、五陰の数に入り識陰と称す。

原文:或いは心と名づけ、或いは意と名づけ、或いは識と名づく。皆な意業の分別の故に、識陰に摂せらる。識相・識行・識性を示すが故に、数を識陰と名づく。かくの如く陰にあらざるを識陰とし、生ぜず起きず作さず、ただ倒錯相応の縁により、虚妄の識なるが故に、数を識陰と名づく。

釈:識陰は或いは心、或いは意、或いは識と称されるも、全て意業分別に属し、識陰に摂せらる。識の相貌・運行・性質を顕示する故、五陰の数に入り識陰と名づく。本来陰入にあらざるを識陰とし、実は出生せず、起用なく、作用無きものなり。ただ倒錯相応の業縁により、虚妄に諸法を識別する故、五陰の数に入り識陰と称す。

原文:なんとなれば、この識陰は衆因縁より生じ、自性無く、次第相続して生じ、念念に生滅す。この識縁は陰相を生ぜず。なんとなれば、この識陰の生相は得可からず、決定相も亦得可からず。生相得可からざるが故に、決定相得可からず、根本的に所有無く、自相無く、牢堅なる相得可からざるが故なり。

釈:何故かといえば、識陰は衆多因縁和合より出生する故、自体性を有せず。次第相続的に生滅を繰り返す。この識縁は陰入の相貌を生ぜず。生相不可得、決定相不可得、根本無所有、自相無く、牢固相不可得なるが故なり。

——生如法師の開示
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