原文:もし無明触より生ずる受において、相応する心中のすべての貪愛に対し、この心より繋縛を離るるがゆえに、貪愛は永く滅び、現法において心解脱を証する。仮にその無明が永断されずとも、識等を依りとして受を最後とするすべての諸行は、後際に生ずべきである。無明の滅するがゆえに、再び起こることなく、無生法を得る。
釈:無明触の後に生じる受に対し、受と相応する心中に生起するすべての貪愛を、この相応する心において繋縛から離れることにより、貪愛は永遠に断滅し、現世の法において心解脱を証得する。もし無明が永遠に断滅されない場合、識を依りとする受が最後となり、受およびそれ以前の触・六入・名色などの諸行は後世に再生されるべきである。無明が滅したゆえに、これらの諸行は再び生起せず、無生法を証得する。
原文:このゆえに説く、「無明滅するがゆえに行滅し、次第に乃至、異熟生の触滅するがゆえに異熟生の受滅す」と。現法において無明滅するがゆえに無明触滅し、無明触滅するがゆえに無明触より生ずる受滅し、無明触より生ずる受滅するがゆえに愛滅し、愛滅するがゆえに、先に述べた如く無生法を得る。これにより説く、「取等の悩みを最後として、諸行は永く滅ぶ」と。
釈:したがって無明が滅すれば行が滅し、行滅すれば識が滅し、識滅すれば異熟生の名色が滅し、異熟生の名色滅すれば異熟生の六入が滅し、異熟生の六入滅すれば異熟生の触が滅し、異熟生の触滅すれば異熟生の受が滅す。現世の法において無明が滅したゆえに無明の触が滅し、無明触が滅したゆえに無明触より生じる受が滅し、無明触より生じる受が滅したゆえに愛が滅し、愛が滅したゆえに、前述の如く無生法を証得する。これにより、取等の煩悩が生死輪廻の最後となり、諸法に執着しない時、五蘊の一切の行は永遠に滅ぶと説かれる。
原文:かくの如く現法において諸行は転ぜず、転ぜざるがゆえに現法において有余依の界に、現法涅槃を証得す。彼の時にあたり、ただ清浄なる識が名色を縁とし、名色が識を縁とし、乃至識身のあるかぎり、恒に繋縛を離れたる受を受く。繋縛ある受にあらず。この識身は先業の引きし寿量に至るまで、恒に相続して住す。
釈:一切の行が滅した後、現世の法において諸行は運転せず、運転しないがゆえに現世の法においてまだ余苦の依る世界(有余依涅槃)を証得する。この時、清浄なる阿頼耶識のみが名色を縁とし、名色が清浄なる阿頼耶識を縁とし、六識身が存在するかぎり、常に繋縛を離れた受覚を領納し、繋縛ある法の受を受けない。この六識身は前世の業が引いた寿命の限り、永く相続して存続する。
原文:もし寿量尽きなば、識の持つ身を捨てん。この命根の後、所有の命根は余すところなく永滅し、再び熟することなし。またこの識と一切の受は任運に滅するがゆえに、残る因縁は先に滅したれば、再び相続せず、永く滅して余すところなし。これを無余依涅槃界と名づく。究竟の寂静処、また涅槃を求むる者の世尊の許に梵行已に立つ、究竟涅槃なり。
釈:寿命が尽きれば、六識の持つ色身を捨てる。この色身の後の後世のすべての色身は永遠に滅尽し、再び現れず、新たに生長することもない。この六識と一切の受は因縁の滅に随って任運に滅し、残る愛・取・有などの因縁は既に滅したため、再び相続せず、永遠に滅尽して残余なし。これを無余依涅槃界の究竟寂静の処といい、涅槃を求める聖者が仏法において清浄な梵行を確立し、究竟涅槃を証したことを示す。
原文:かくの如く已に説く、三種の相によりて縁起を建立することを。前際より中際に生じ、中際より後際に生ず。また中際においては、流転するも清浄となるも、これ縁起の体性なり。
釈:以上、前世の因縁により現世の五蘊身が生じ、現世の因縁により後世の五蘊身が生じるという三つの相により縁起が建立されることを説いた。現世においては生死を流転するか、あるいは究竟の清浄に向かうかが、縁起の体性である。
回向文:当ネットプラットフォームにおけるすべての弘法と共修の功徳を、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向す。世界の平和と戦争の消滅を祈願し、烽火起こらず干戈永く息み、一切の災害ことごとく消退せんことを。各国人民の団結相助け、慈心をもって相向かわんことを祈り、風雨時に順い国泰民安ならんことを。一切衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生を断ち、善縁を広く結び、善業を修め、仏を信じ学び、善根を増長し、苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉じ涅槃の路を開かんことを。仏教の永き興隆と正法の永住を祈り、三界の火宅を極楽の蓮邦となさんことを。
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