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日常開示

2021年12月28日    火曜日     第1 回の開示 合計3566回の開示

如来蔵の労触と労触相

楞厳経第三巻原文:また阿難よ、なぜ六入が本来如来蔵の妙なる真如性であるのか。阿難よ、まさにかの眼精が凝視して労相を発するもの、眼と労相を兼ねるものは、ともに菩提なるものなり。凝視して労相を発するは、明暗の二種の妄塵による。見を発して其中に居り、この塵象を吸収する、これを見性と名づく。この見は彼の明暗二塵を離れれば、畢竟として体なし。

釈:さらに阿難よ、六入がなぜ本来如来蔵の微妙なる真如性であるのか。阿難よ、まさに汝の眼が凝視し物を見る際に現れる活動相・労働相・運行相、眼は眼根であり、労相は行蘊であるが、これら両者ともに妙なる菩提の運行によって現れた労触相である。如来蔵は明と暗という二種の虚妄なる塵境を借りて、その中に見を生じさせ、この見性がこれらの塵境を吸収し、塵境を顕現させる。この現象を見性と称するのである。この見性は明暗の二種の虚妄なる塵境を離れれば、本来何らの自性も持たない。

この段の意味は、如来蔵が明暗二種の塵像を借り、眼根と触れる塵の間に、眼識の見を強いて生じさせ、それによって塵境を見、見性を得たということである。この見性は眼識の見ではあるが、実は如来蔵から生じたものであり、本質的には依然として如来蔵の見性である。故に眼入は如来蔵性である。同様に、耳入・鼻入・舌入・身入・意入もすべて如来蔵性であり、如来蔵が六根と六塵の触れるところで六識の見を生じさせ、六識に見性を与えたのである。すなわち六識の見性の本質は如来蔵の見性である。

六入の虚妄において説かれる菩提の凝視発労相は、根と労触のところで六識の見性を生じる。この見性は塵を離れれば自性なく、自主性も持たない。六識が六根のところに持つ見性は第二月の如く、如来蔵菩提の凝視発労相であって、他処から来るものではなく、直接如来蔵菩提より生じ、如来蔵七大種子中の識種子より出ずるものである。

如来蔵の凝視発労相は、手で目を押すが如し。目が疲労すれば物が二重に見え、一は真、一は仮となる。仮なるものは第二月にして真より来る。真なければ仮なし。仮を説くも真ならず、真を説くも仮ならず。仮なるものを仮と説くは正しからず、真と説くも正しからず。真でもなく仮でもなく、また真でもあり仮でもある。目を押して成る像は影にあらず。如来蔵のこれらの労相は意根によって促される。もし意根が静まれば如来蔵は労せず、すべての労相――見性は消失する。

如来蔵のこの労触相は意根によって造られる。如来蔵本体は労触も労触相も持たず、三界の法に無心なるが故である。心性寂滅の如来蔵は意根の絶え間ない攀縁に随い、不断に種々の法を生じ、眼で色を見、耳で声を聞き、鼻で香を嗅ぎ、舌で味を知り、身で触を覚え、意識で法を知らざるを得ない。これにより六入処の労触相が現れる。

もし意根が諸法に攀縁しなければ、如来蔵は寂滅の中にあり、諸法を生じず、六入処のこれらの機能作用を生ぜず、妄法生じることなく、如来蔵は真実の中に安住し、妙湛として寂然たり。本来如来蔵は何らの法も生ぜず、諸法に動かされない。しかし業種が熟し、縁故によって妄動すれば、諸法は必然的に出生する。諸法が生じた時点で既に労触であり、意根に逼迫されているが、如来蔵には逼迫されるという想念もなく、ましてや逼迫されていると知ることもない。ただ縁に随い任運に行うのみで、他の考えをなさない。

回向文:我々のネットワークプラットフォームにおけるすべての弘法と共修の功徳を、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向し、世界の平和と戦争の消滅を祈願します。烽火起こらず、干戈永遠に止み、一切の災害ことごとく消退せんことを。各国人民が団結協力し、慈心をもって相対し、風雨時に適い、国泰民安ならんことを願います。一切衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生を断ち、広く善縁を結び、広く善業を修め、仏を信じ仏を学び、善根を増長し、苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉ざし涅槃の路を開かんことを。仏教が永遠に栄え、正法が永住し、三界の火宅を変じて極楽の蓮邦とならんことを祈願します。

——生如法師の開示
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