衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年11月19日    金曜日     第1開示 合計3541開示

法義薫習意根時の現れ

青空の観行日誌

11月19日観行日記 座禅二百二十日目 呼吸を観る

昨夜の座禅で呼吸を観じたところ、呼吸は比較的スムーズで、胸と腹部は温かく快適であった。呼吸観察を続けるにつれ、呼吸の熱流が絶えず身体に広がり、腹部から次第に背中へと延び、最後に熱流が後頭部に流れ込んだ。呼吸はますます滑らかになり、気脈は通暢、眼前は明るく、妄念は少なかった。意念は全身の感覚に集中していたため、観行の法義を観じようと準備した。その時、脳裏に「色は無常、色は無我」が自ら閃いた。すると突然全身の筋肉が緊張し、呼吸が急激に深まり、筋肉の収縮に伴って身体が捻れるような動きを見せた。この状態は約二分間続いた後、次第に落ち着きを取り戻した。

その後も呼吸を観じ、全身の感覚を感知し続けた。先ほどの全身の筋肉緊張・収縮を経て、全身の経絡はさらに開かれ、特に頭部はより通暢になった。しばらくこのように観行を続けると、頭部は明晰になり、眼前は安寧となった。そこで再び意識的に「色は無常、色は無我」を脳裏に閃かせた。今回は全身に反応はあったものの、既に強くはなく、眼前でゆっくりと「色無我」の具体的な法義を思惟した。思惟の過程で意念は集中し、妄念はなく、いかなる焦燥感や無用の妨げもなく、安寧で深遠であった。ほどなく目覚ましが鳴ったため、座を下りた。今朝の座禅では最初から最後まで呼吸を観じ、観行による法義の思惟は行わなかった。全身の気脈は通暢で、終始全身の愉楽に浸っていた。

評:色無常という念いが現れた際、全身の筋肉が緊張し身体が捻れたのは、意根が色無常に触れたためである。以前、無常の法が意根に触れていなかった時には、このような震動現象は起きなかった。多くの意識が理解している法義も、意根に熏染されていない時は身心共に何の触発もなく、意根が法義を直視した時に初めて震動が現れる。観行参究を続けた後、意根が初めて証得し、三昧あるいは法眼浄がそれに続いて現れる。震撼、驚愕、恐慌、狼狽などといった深層の心理活動は、全て意根が触発された際に表出するものである。

呼吸を観る際は、ひたすら呼吸の無常を体得すべきであり、体得する際に思惟を用いず、ただ客観的に観察する。特に「色無常」という話頭を引き出す必要はない。観行による四念処での我見断ちは、自然に呼吸という切口から色無常・身無常を体得し、さらに受念処・心念処・法念処から客観的に心無常・法無常を体得し、それによって我見を断つものである。功夫が至れば、自然に観察し自然に体得するものであり、現在の観行とは異なる法義の問題を意図的に閃かせるものではない。これが自然証果であり、意根による証果である。

観行は現量観察とも呼ばれる。目前にある法を観察し、法がどのような状態であるかをありのままに観る。呼吸を観るならば、呼吸をありのままに観、現量で呼吸を観る。呼吸の情景がそのまま目前に現れるのであり、意根がそれを如何に弁認し、どのような結論を導くかは意根の事である。色無常・身無常は、意根自らがこの結論を導き出し、自ら確認させるべきであり、意識が注意を促す必要はない。意識は現象をありのまま意根に提示する役割のみを担い、それ以外は全て意根の事である。意根を焦らせず、意根の代わりに決定を下す必要はない。誰の問題は誰が解決すべきであり、手助けは無意味である。このような結果が現量実証であり、情思意解なく、推理・推導・想像・推測がない。

回向文:当ネットプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳を以て、法界の一切衆生に回向し、世界の民衆に回向します。世界平和を祈願し、戦争が起こらず、烽火が上がらず、干戈が永遠に止むことを。全ての災害が尽く消退することを。各国の人民が団結し互助い、慈心をもって相対することを祈願します。風雨順調で国泰民安であることを。一切衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生せず、広く善縁を結び、広く善業を修め、仏を信じ学び、善根が増長することを。苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉ざし涅槃の路を開くことを。仏教が永く興隆し、正法が永く住することを祈願します。三界の火宅を極楽の蓮邦へと変えますことを。

——生如法師の開示
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