衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年11月11日    木曜日     第1 回の開示 合計3538回の開示

意根の思と思根の知

意根も意識と同じく識であり、ともに思心所法を有し、思考・思惟・思量が可能である。ほとんどの人が意根の思を観察できないため、意根の思と意識の思に差異があると考え、意識の思を「思惟」、意根の思を「思量」と呼び、思惟は思量ではなく、思量は思惟ではないと認識する。もし意根が思惟思考すると言えば、それを誤りとし、意識の思惟思考だとする。意根の心理活動を指摘すれば、多くの人は否定し、それは意識の心理活動だと言う。よって意根の心理活動を観察できないまま唯識を学び、内心に強い執着を抱くことは、非常に問題が多いのである。

なぜ多くの人が意根の思が深遠で隠微、観察困難だと説くのか。その原因を究明すれば、衆生が意識の知を以て知とし、意識が知る所を以て衆生の知とするためである。意識が知らざる所は、衆生も知ることがない。もし意識の智慧が不足し、意根の心理活動や意根の知を認識できなければ、衆生は意根の心理活動を深遠・隠微・微妙と感じる。実際には意識の無知を責めるべきであり、意識が智慧を具え無礙に働く時、意根の心理活動を眼前に観察できれば、意根を深奥難解とも隠微難知とも感じず、意根の心所法を誤解することもなくなる。

もし衆生がすべて意根の知を以て知とするなら、どのような状況が生じるか。意根の知を以て知とするなら、意根の知らざる所は衆生も知ることがない。意根が意識の知を認識し得ない場合、意識が如何なる法を知り、どれほど知ろうとも、意根が知らなければ衆生も知ることがない。よって意識が学んだ理論はほとんど役立たず、意根が第八識を知らなければ悟りを開くのは更に困難となる。この時衆生は「意識の心理活動は深細で窺い知り難く、第八識は更に深遠隠微で行相微細なり」と言うだろう。実際、諸法の隠微・顕白は識の智慧によるのであって、法自体の性質ではない。智慧ある時、一切の法は顕白で容易に理解できる。智慧なき時、如何に顕白な法も深遠隠微に感じられる。故に六七識が転識得智すれば、意識は意根と第八識の心行を眼前に観察でき、何ら困難を覚えない。仏が一切の法を観るのは極めて容易で、観察せずとも一切法を知り、胸中に了らくする。

もし衆生が意根の知を以て知とするなら、神通力を得て互いの秘密がなくなり、前世後世を了知するだろう。これにより因果を知り、悪報を減らすため悪業を少なくする者も出よう。しかし我執の強い者は、悪業で苦を受けると知りつつも悪業を重ね、刑務所に出入りする者が改悛しないように、依然多い。意根は意識の明確な導きがなければ単純幼稚で情執が強まり、我性が増大し、意識による抑制が困難となる。悪業を造る確率は高まり、我見を断つのは更に困難となる。

もし衆生がすべて第八識の知を以て知とするならどうか。第八識は世間法を知見せず、人我他女を識別せず、色を見ず声を聞かず、六塵境界を知らない。この状態では衆生は生存できず、六根が閉じて涅槃の境に入る。これを良しとするか。菩薩が衆生を度すことができないと言う者もあろうが、その時すでに涅槃に入らぬ衆生はおらず、仏菩薩の救済を必要としない。もし衆生が第八識の知を以て知とするなら、仏法を学ぶ必要もなく、仏と衆生の区別もなくなる。

もし衆生が五識の知を以て知とするなら、生存不可能となり五蘊世間は機能停止する。五識は粗重な五塵のみを弁別し、微細な五塵や心法、意識・意根・第八識を知らない。粗重な五塵境外は一切を知らない。仮に意識さえ知らなければ、どうして五塵の粗境を知り得よう。五識は意識と協働して初めて五塵の粗相を弁別できるが、五塵の細相や法塵、心法を知らなければ生存は不可能である。要するに、一切法を知るには、どの識を主とするにせよ、大智慧を得て識を転じ智とし、智識をもって初めて一切法を知り得るのである。

回向文:当ネットプラットフォームにおける全ての弘法と共修の功徳を、法界の衆生に回向し、世界の民衆に回向いたします。世界の平和を祈願し、戦争の起こらぬよう、烽火の燃え上がらぬよう、干戈永遠に息むよう、一切の災難退散を祈念します。各国人民が団結協力し、慈心をもって相対し、風雨順調に国泰民安となるよう祈願します。全ての衆生が因果を深く信じ、慈心をもって殺生を止め、善縁を広く結び、善業を修め、仏を信じ学び、善根を増長し、苦を知り集を断ち、滅を慕い道を修め、悪趣の門を閉じ涅槃の路を開くよう願います。仏教の永き興隆、正法の永住を祈り、三界の火宅を極楽の蓮邦となさんことを!

——生如法師の開示
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