衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年01月26日    土曜日     第2 回の開示 合計1207回の開示

文字の障りがあるのは定力と智慧が不足しているためです

中国の漢字の意味を理解するには、私たちは思惟し分析し研究を重ねる必要があります。そうすることで、その中の真実の意味を明らかにすることができるのです。文字に対する障害を克服した人こそ、仏法を正しく理解しやすく、絶えず智慧が生じるのです。文字障がある人は、一節の文字を見てもその実質的な意味を真に理解できず、往々にして誤解し、智慧を高めることができません。衆生同士の交流において、言語や文字に対する障害があると、互いに理解し合えず、コミュニケーションが取れなくなります。そうなると、交わりは苦悩と無力感に満ちたものとなってしまうのです。他人の気持ちを察するのが上手な人は、言語や文字の障害が少なく、他人の心理を見透かすことに長け、人と容易にコミュニケーションを取ることができます。そのため、人との交流において障害が少ないのです。

人々の文字に対する理解の程度は大きく異なります。なぜ一部の人々は文字を理解する程度が低いのでしょうか。心が粗く繊細さに欠け、定力が不足し、智慧がなく、福徳が欠如していることが、最も主要な問題点です。文字には明らかにその意味がないのに、一部の人はそのように理解してしまい、自らを振り返って反省しようとせず、回光返照をしようとしません。多くの人は他人を照らすばかりで自分を照らさず、それが自我が強い表れなのです。そして自分が正しく理解していると考え、ためらうことなく他人を否定し、議論を挑みます。このような衝動性はまさに禅定が欠如している表れであり、智慧がなく、自らを省みることができず、自分と他人を正しく評価できない結果なのです。聡明な人とは、心が非常に繊細な人であり、他人をありのままに観察できるだけでなく、自らを真摯に省みることもできます。観察力や省みる力がなければ、定力が乏しく智慧が不足していることを示しています。

——生如法師の開示
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