見分は識の体性であり、また識の作用でもある。自証分は識の体性であり、また識の功用でもある。さらに証自証分に至っても識の体性であり、識の功用でもある。識の種子は清浄であり、形成された識も清浄である。しかし、識の作用は清浄ではなくなる。心所法が参与し補助的に運行するためであり、心所法が清浄でなければ、識の機能も清浄ではない。しかし、これらの功用にも不浄の相はない。その本質はすべて如来蔵であり、全体が如来蔵性であるからだ。ちょうど黄金で作られた便器のように、相は黄金の相であり、本質は黄金であり、性質は金性である。七識の本質は如来蔵であり、性用は如来蔵性である。不浄という説は存在しない。これが万法の最も了義(りょうぎ)なる内実であり、了義中の了義であって、これ以上に了義なるものはない。一般の根性の者には耐えられないのは当然であり、それなら虚妄の相の上から言えば、相には不浄の相がある。相分には、色法の相、心法の相、非色非心法の相が含まれる。心法の相の本質は如来蔵性であり、清浄である。すると色法の相と非色非心法の相は、如来蔵から出生し顕現したものであり、本質は同様に如来蔵性であり、同様に清浄である。しかし、虚妄の相の上の不浄を妨げるものではない。
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