衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年02月11日    日曜日     第4開示 合計21開示

なぜ六方八方を見聞きできるのか

意識が覚醒している状態では、六塵の中でも特に多くの法塵において了別が行われ、心識の種子の流注は比較的分散している。しかしながら主導的な方向性は存在し、完全に一つの法に流注を集中させるには、修定によって定力を得るなどの訓練を経なければならない。定力が深まるほど流注は集中できる。そのため仏陀はまず修定を修め、その後観行や参禅を行うよう教えられたのである。そうして初めて効果が得られる。とはいえ一般人が心識の種子を二つ以上の法塵に均等に分布させることは不可能であり、常に主と従が存在する。複数の法塵を同時に了別する必要がある場合、意識の注意力は異なる法塵の間を絶えず跳躍しなければならない。例えば、車両や人が非常に多い道路を歩く際、意識は色法塵、声法塵、触法塵を絶えず了別する必要があり、三つの法塵全てに同時に識種子が流注する。しかしここにも主従の区別があり、主従関係は外界の変化に応じて絶えず切り替わる。

上記の説明は一般人にとっては正しい。つまり定が無い、あるいは少なく、特別な訓練を受けていない者にとってはその通りである。訓練を経て定力が優れている者であれば、たとえ複数の境界を同時に了別しても定力を保ち、全てを明瞭に了別できる。いわゆる「八方に目を配り六路に耳を澄ます」状態である。定力に優れた者は、同時に複数の事柄を行っても問題なく、全てを適切に処理でき、精力を複数の事柄に高度に集中させ対応できる。識心が訓練され、定と慧の双方が非常に強固である場合、このような状態が実現するのである。

——生如法師の開示
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いかにして意識の思惟を深細かつ明晰ならしめるか

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唯識宗の悟り

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