衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年02月17日    土曜日     第4 回の開示 合計64回の開示

いかにして究竟成仏を成就するか

一切の法の修得はすべて意根にあり、意識にはない。仏法であれ世俗法であれ、意識が学んだものは作用せず、単なる知識に過ぎず、意根を熏習する役割しか果たさない。もし意識が学んだ知識が意根を熏習せず、意根に証得させなければ、功徳を受用することはない。では解悟と証悟の違いはどこにあるのか。解悟は六識にあり、証悟は意根の証得と認可にある。意識が意根を熏習し、意根を変革し、意根の無明を断除するにあたり、一切の法は意根が主宰する。意根が一旦証得すれば、心の働きを転換させることができ、我々は成仏できるのである。仏法において観行を重ねるほど、最も根本的なものは意根にあると感じる。意根は成仏の鍵であり、生死輪廻の主宰者である。意根を調伏し、熏修を成就させ、仏法を証得させれば、我々は解脱し仏道を成就する。

我見を断ずるとは必ず意根の我見を断ずることである。意根が五陰を我と見做すなら、理論を学んで意根を熏習し、意根に五陰無我を参究させ、意根にこれらの法が我でも我のものでもないことを認可させる。意根が一旦この理を証得すれば、三縛結が断たれ、心は次第に清浄となり、心の働きは徐々に転換し、一切の法を執取しがたくなれば、我々は解脱を得る。

これが修行の要諦と奥義であり、小乗も大乗も同様である。大乗において、意根は常に如来蔵の功徳を自己のものとし、一切の法を我のものと見做す。一切は我の所有であり、我が一切の法を決定し、我が一切の法を主宰する。法界の実相を知らず、一切の法が如来蔵の幻化であることを知らず、自らも如来蔵が現出した幻化法であることを識らない。意根がこの理を知らぬ故に、一切の法を実有と見做して執取を続け、身口意の業行を造作し、生死を断たず、成仏もできないのである。

大乗法を学ぶとは、意識が理論上これらの法の無我性を明らかにし、如来蔵の実有性を知り、その後意根を熏習して意根に思量参究させ、最終的に如来蔵を証得させることである。法界の実相とは如来蔵であり、法界の一切の法は如来蔵が変化したものである。これらの機能作用は意根のものではなく、全て如来蔵の機能作用である。意根がこの理を認可すれば、実相を証得する。その後修証の過程で、次第に自我を執取せず、一切の法を執取しなくなれば、法執は徐々に断尽する。このように修行すれば、我執を断つだけでなく法執も断じ、法執が断たれれば遂に究竟の成仏を果たす。

故に修行の要諦は全て意根にある。無明は意根にあり、無明を断ずるとは意根の無明を断ずることである。煩悩を断ずるとは意根の煩悩を断ずることである。解脱を得るとは誰が解脱を得るのか。意根が解脱を得るのである。三界の世間法を執取しなければ生死の束縛はなく、当然解脱する。成仏とは誰が成仏するのか。六識は成仏できず、六識は生滅幻化を続け、他世に至ることはない。では如何にして成仏するのか。意根は永遠に存在し滅せず、成仏の時まで継続し、成仏後も永遠に不滅である。故に成仏は意根が成就し、意根が仏果と仏位を証得する。しかし究竟の理地において、意根は永遠に仏ではなく、何らの果位も得られない。成仏も幻化法であって実法ではない。如来蔵は成仏せず、究竟の理地において意根も成仏しない。成仏の日が来れば、成仏すべき仏は存在せず、どの識も成仏しないことが分かる。このようにして初めて究竟の成仏が可能となる。

——生如法師の開示
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