衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2018年02月19日    月曜日     第5 回の開示 合計77回の開示

甚深なる唯識の悟りの法門

五識に貪りと厭離の心行があることは、五識に欲心所が存在することを示す。意根に貪りと厭離の心行があることは、意根に欲心所が存在することを示す。縁となる対象に対する領納性があり、智慧が生じることは、勝解心所が存在することを示す。法を念じ続ける力は念心所の存在を示し、法に定まることで了別慧が生起することは定心所の存在を示す。分別する智慧と相応する択力があることは、慧心所の存在を示す。

意根の慧心所は不可思議である。念仏を唱えて修定を導く際、気力が不足すると、意根が突然低音に変えることを決定し、音調が即座に変化するが、意識はまだ覚知しない。意根と如来蔵の二者が和合して一切の法の生起・運営・変化を決定する場合、多くの場面で六識は覚知しない。まことに意根の慧は不可思議であり、常時一切の法を了知し機に応じて変化に対応し、如来蔵はその歩調に寸分も遅れず追随する。

色身が特定の栄養を必要とする時、特にその栄養食品を好んで摂取しやすく吸収しやすい。色身が特定の養分を必要としない時、色身はそれを排斥し摂取を好まない。意根と如来蔵というこの二者は、いったいどのような計らいをしているのか、意識では真に想像も及ばない。

そこで我々が考えるべきは、意根の了別慧がそれほど低劣なものかどうかである。必ずしもそうではなく、どの方面においてかによる。六塵の細部の具体的な内容を了別する際には智慧が不足するが、意識がその欠陥を補うことができる。他の面では、意根の智慧は依然として強力であるため、意根が非常に利発であると言われるのである。もし意根の慧が真に低劣であるならば、どうして五陰身を刹那に反応させ、緊急事態に対応し、常時色身を調節して周囲の生活環境に適応させることができようか。意根はまず色身の状況を了別した後、六識に造作を指揮する。

意根と如来蔵が永遠に相伴って密接に連携しているならば、意根を証得し禅定が具足した時、意根の全ての心行の処で如来蔵を把握することができる。これが甚深なる唯識の開悟法門である。その後、その智慧は極めて深細となり、初禅定を修得するや、禅宗の三関を一躍して通過し、初地に入ることは時間の問題となり、修行は一大阿僧祇劫を超越する。慧根ある久修の大菩薩たちはこのような決心・毅力・勇気を持つべきである。悟りを得るなら識心より悟り、仏法の究竟処に達し、八識の和合運作を全て観察し、速やかに唯識種智を生起させ、将来如来の家業を分担する能力を具え、仏教の柱石となるべきである。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

前五識は独影境の法塵を了別することができない

次の記事 次の記事

貪瞋癡三毒の害悪作用(一)

ページのトップへ戻る