衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年03月08日    木曜日     第1開示 合計169開示

意根の心所法(一)

第七識は、万法を了別する過程及び仏法を修学する過程において、いずれも作意心所法が生起する。その中で常に意根の作意が主体となり、意根の作意が引き金となって六識の作意が生じる。意根の作意には前提条件があり、いくつかの因縁が存在する。因縁条件が異なれば、その作意も異なる。興味を持つ対象には貪着の作意を起こし、興味がなく厭悪する対象には即座に遠離する作意を起こす。重要でないと認識した対象には、作意した後も再び触れることはない。

欲とは、願望、意思、憧憬、希求を指す。例えば極楽世界を憧憬する場合、単に意識が憧憬するだけで意根が憧憬しなければ意味がなく、極楽世界へ往生することはできない。意根の憧憬と欲求がなければ極楽世界に生まれることはできず、意根の憧憬は深く信じ切って願うこと(深信切願)と呼ばれる。

意根に何の考えや願いもなければ、一切の事業は成就できない。意根が三界の世間法を再び希求しなくなれば、命終すると無余涅槃に入る。阿羅漢はまさにこれであり、意根が如何なる世間法も希求せず、世間の一切の法に対する欲望と求めを断つのである。意根が証果を得ようと願い、明心見性を憧憬して初めて、精進して仏法を修行することを決断し、三十七道品を満たすことができる。意根にこのような考えや求めがなければ、その人は根本的に精進して努力することができず、意識の考えは決定的な作用を持たない。意根に染み渡って初めて効果を発揮するのである。

もし意根が仏法を学ぼうとしなければ、意識は仏法を思惟することはできず、世俗の法を思惟し世俗の事に没頭するようになる。「想」とは希求、すなわち欲望である。意根に欲がなければ決断を下さず、方向性を持たず、行動を起こすこともなく、相応する法は生じない。意識が修行しよう、精進しようと考える場合でも、それが意根に染み渡らなければ、単なる考えに過ぎず、真の精進は不可能であり、実際の行動も起こりえない。実際の行動は意根が決定し造作するものである。

——生如法師の開示
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