衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年03月15日    木曜日     第4開示 合計207開示

大念住経における外受と内受

仏陀は大念住経において受を観ずる際、内受と外受の二種の受について説かれています。外受とは観察しやすい意識心の受、特に六塵の境界における意識の受を指します。内受とは深く隠れて観察しにくい意根(マナス)の受を指します。大多数の人は意識と意根を区別できませんが、心の奥底の思想活動は心が非常に細やかであれば、感知し観察することが可能です。

仏陀が心を観ずることを説かれた際、心を観察するには内心と外心の貪瞋痴の煩悩、内心と外心の集中と散乱、広大と狭小、有上と無上、有定と無定、解脱と不解脱を観察すると述べられています。これは内心である意根に貪瞋痴の煩悩があり、定と不定があり、解脱と不解脱があることを示しています。これは小乗経典から意根にこれらの心所法があることを証明しており、世尊が明言されていないにもかかわらずです。なぜなら意根の法は大乗の弟子でさえ理解し証得することができず、ましてや小乗の弟子が意根の法を深く正しく理解することは難しいため、世尊は意根の心所法を秘かに説かざるを得なかったのです。

疑惑の煩悩には内疑惑と外疑惑があり、疑いを断つには究極的に断たなければならず、それは必ず意根の疑惑を断つことです。したがって三結(さんけつ)は完全に意根の結びを指し、意根の疑惑を断つことが三結を断つことになります。貪欲を断つとは、意根の貪欲を断つことであり、そうして初めて心が色界天人と相応し、色界天に生まれることができます。瞋恚を断つとは、必ず意根の瞋恚を断つことであり、それが三果の聖者です。愚痴を断つとは、必ず意根の愚痴・無明を断つことであり、そうして初めて三界を出離することができます。

小乗仏教の経典は最も理解しやすいものですが、一体誰が本当に小乗の仏教経典を理解できるでしょうか。ましてや大乗経典において、一体誰が本当に完全に理解し得るでしょうか。阿羅漢果(あらかんか)を証得した者であっても、汝の意を完全に信じることはできず、智慧が不足し、意が究極でないため、完全に信じれば容易に誤りを生じます。

仏法は断片的なものではなく、必ず前後が連続しており、相互に補足し説明し合うものです。仏法の議論を行うに当たり、一体どのような者に議論する資格があるでしょうか。小根小智の者がどうして議論を提起し、議論に参加する資格がありましょうか。

——生如法師の開示
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