衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年07月06日    火曜日     第3開示 合計3472開示

定慧等持を保つ修行の境地

問:できるだけ早く定力を修めるために、落日の写真を観るという方法は良いでしょうか?

答:二年前に、落日の観方についてお話ししました。その落日観法は主に、自ら西方の空に沈む夕陽を実際に観察することです。太鼓が虚空に吊るされているように金色に輝く太陽を観た後、目を閉じて自ら目にした落日の光景を追想します。こうすることで記憶が鮮明であり、観想の効果は最も高く、観想を修めるのも比較的容易です。畢竟、実際に目にしたことに基づいており、空想のように困難ではありません。実際、これらの観行法は全て似たようなものですが、どれがより習得しやすく、どの方法が自分に適しているかという違いだけです。

どの方法を用いるにせよ、ただ一つの方法で定力を修めることに成功し、明らかに現量の観行ができれば良いのです。観行が意根に落ち着き、意根が専注して思量することができれば、あなたは修行に成功したと言えます。意根を専注して思量する方法を会得した後は、いかなる法に遭遇しても、意根を用いて思量し、意根に法を証させることが可能となり、そうすれば皆が大智慧三昧を得ることができ、修める法に対して円融無碍となります。

華厳経における善財童子の五十三参では、善知識を一人参訪するごとに、善知識の教導を得た後、必ず三昧定の中で参究しました。全て意根が専注しての思量であり、意識による解釈はありませんでした。そうして定慧等持の三昧を証得し、最終的に等覚菩薩の位に至りました。善財童子は多くの理論を学ぶ時間を費やさず、理論に専心して豊富な知識を得ようとはせず、ただ一つの法を求めると、禅定三昧の中でそれを参究し証得しました。最終的に定慧等持の甚深なる三昧を得たのです。定にも偏らず、慧にも偏らない。そうしてこそ真の証得であり、最も究極的な証得なのです。ですから我々の修行も、できる限り定慧等持の修行状態を保つべきであり、狂慧(慧に偏り定を欠くこと)にもならず、愚定(定に偏り慧を欠くこと)にもならず、一つの方法を会得したならば、必ず定の中で参究すべきです。もしひたすら理論を学ぶだけでは、禅定もなかなか修めることができず、全ての理論が消化吸収されず、心の中に詰まって慢心を増長させる結果となります。

——生如法師の開示
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なぜ観想の際、実際に目にしたものは空想のみより観想しやすいのか

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