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日常法話

2018年03月17日    土曜日     第1 回の開示 合計217回の開示

広百論釈

眼とは眼光を指し、眼の作用であるが故に、眼から離れず、また眼の名を得る。もしこの眼光が色境に至るとするならば、何故に遠方の色は見るのに遅延せず、如何にして月輪と近くの諸色は、目を上げれば同時に見え、遅速の差がないのか。世の中に、一つの動作で同時に遠近二方に至る行動する物があるのを見たことがない。この因縁によって、比量を立てるべきである。遠色を照らして見るは遠色に至らず、近色を照らして見るは時に差異なき故に。

釈:眼とは眼識であり、眼根の用いる所にして、眼根を離れない故に眼(識)と名付ける。もし眼識が色境の処に至り得るなら、何故に遠方の色境は、眼識が近色より遅く見えることがないのか。如何にして天上の月輪と眼前の近色は、目を上げれば同時に見え、速やかさの差がないのか。未だかつて世の中で、同時に遠近二つの処所に至り得る動転する物を見たことがない。(すなわち眼識は動転せず、色境の処に至っていない。即ち、眼は色に至らずして見あり。何故にそう言えるか)この因縁によって、これは比量の見る所であると論を立てるべきである。眼識は遠色を照見して見ありとしながら遠色に至らず、眼識は近色を照見して見ありとしながら近色に至らず、遠近の色を見るに時間の差異がない。

眼識は究竟において何故に遠近の色を同時に見るのか。眼は色に至らず、色は眼に至らず、而も能く見あり。耳は声に至らず、声は耳に至らず、而も聞く性あり。実に不可思議である。もし勝義根によって解釈すれば、容易に理解できる。六識の見る所は皆勝義根の中の六塵であり、内六塵は全て勝義根の中にある。何の遠近の説があろうか。如何に遠くとも近くとも、色塵が勝義根に伝達されれば、遠近を分たず、全て影である。識心が識別すれば同時に影を了別し得るが、実質的な物質の外色塵を了別するのではない。もし外色塵を了別するならば、初めて遠近の説がある。而して如来蔵は能く外色塵を了別するが、外色塵は如来蔵にとって、また遠近の説がない。

——生如法師の開示
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