眼とは眼光を指し、眼の作用であるが故に、眼から離れず、また眼の名を得る。もしこの眼光が色境に至るとするならば、何故遠方の色は見るのに遅滞せず、如何にして月輪と眼前の近色は、目を上げれば同時に見え、速遉の差がないのか。世に行動するものが一時に遠近両方に至る例を見ない。この因縁により、比量を立てるべきである。遠色を照らして見るは遠色に至らず、近色を照らして見るも時に差異なき故。
釈:眼とは眼識を指し、眼根の用いる所であり、眼根を離れない故に眼(識)と名付ける。もし眼識が色塵の処へ行くことができるなら、何故遠方の色塵を見るのに遅れないのか。如何にして天上の月輪と眼前の近色は、目を上げれば同時に見え、速さの差がないのか。世の中で移動するものが一時に遠近両方に至る例は見たことがない。(つまり眼識は移動せず、色塵の処へ至らない。即ち眼は色に至らずして見あり。何故か。)この故に、比量の所見として論を立てるべきである。眼識が遠色を照見して見ありながら遠色に至らず、近色を照見して見ありながら近色に至らない。遠近の色を見るに時間の差異がない。
眼識は何故遠近の色を同時に見るのか。眼が色に至らず、色が眼に至らなくても見ることができる。耳が声に至らず、声が耳に至らなくても聞く性がある。実に不可思議である。勝義根で解釈すれば容易に理解できる。六識の見る所は全て勝義根の中の六塵である。内なる六塵は全て勝義根の中にあり、遠近の説はない。如何に遠近の色塵も、勝義根に伝われば遠近を分たず、全て影である。識心が識別すれば同時に影を了別するのであり、実質的な外界の色塵を了別するのではない。もし外界の色塵を了別するならば、初めて遠近の説がある。然るに如来蔵は外界の色塵を了別できるが、外界の色塵は如来蔵にとって遠近の説がない。
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