衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年03月20日    火曜日     第2開示 合計232開示

前五識の五別境心所法

前五識には定心所があり、もし五識に定がなければ、眼識は多様な対象に執着し、耳識は多様な対象に執着し、鼻識は多様な対象に執着し、舌識は多様な対象に執着し、身識は多様な対象に執着し、意識も必ずそれに従って多様な対象に執着することになります。そうなれば心は大いに乱れるのではないでしょうか。五識に定がなければ、意識も定まることができず、意識は必然的に五識に従ってあちこちで了別することになり、こうして心は容易に乱れ麻のようになります。

現に見るように、五識はそれぞれ一箇所二箇所に定まって散乱せず、微細なものを了別することができます。これは五識に定があり、定と相応することを示しています。もし六識に定がなければ、意根が定まっていないことを示します。なぜなら、五識・六識が対象に執着するのは意根が主導して縁を攀(と)る結果であり、意根が境を見ようとしなければ、六識は境を見ることができないからです。したがって、もし意根に定がなく、定と相応しなければ、修行は永遠に禅定を得ることができず、四禅八定も修めることができません。世人は欲界の人間界にのみ生きることになり、天上には衆生は存在しなくなります。

五識には了別の慧があり、五塵に対して判別と確認を生じさせ、五塵に対して明確な了別と判別を持つことができます。したがって五識には慧心所があり、五識の慧が強い時も、五識の定心所によって引き出されます。「定より慧を生ず」とはこの道理です。同様に、意根の慧も大部分は定によって引き出され、特に煩悩を断じ、識を転じて智となった後の智慧は、なおさら意根の定心所によって引き出されます。五塵が何であるかを確認できる以上、五識には勝解心所(しょうげしんじょ)があり、五塵法の相貌を明らかにし勝解できることを示しています。

五識が五塵の境界に対して境に趣く性質と避ける性質を持つことは、五識に欲心所があることを示しています。例えば、眼識は柔らかな色彩に出会えば能動的に趣き、強烈でまぶしい太陽光に出会えば自然に避けます。これが眼識の欲心所です。耳識は耳障りな音に出会えば極力避け、柔らかな軽音楽に出会えば心はそれに憧れます。鼻識は鼻を刺す臭気に出会えば避ける心を持ち、温かい香気に出会えば境に趣き貪愛を生じます。舌識は美味に出会えば能動的に探し求めて境に趣き、刺激的な味に出会えば極力避けます。身識は軽い触れと妙なる触れに出会えば境に趣き貪愛を生じ、逆らう強烈な苦痛の触れに対しては緊急に避けます。以上は五識に微弱な欲心所があり、意識の欲心所よりもはるかに微弱で、表現が明らかではなく、観察しにくいことを示しています。

五識はかつて慣れた境に対しても、一定の念性があります。この念性によって欲心所を持つことができ、貪愛を生じ、境を離れようとせず、境界に粘着して放しません。

五識は五つの別境心所法を具足していますが、微弱であり、一般的には五俱意識の五別境として現れます。しかし細かく分ければ、やはり区別できます。全体的に見て、五識の現行と運作は依然として意根によって制御され決定されているため、五識の欲心所は一層微弱で曖昧になり、意根の操作に覆い隠されてしまい、発見が非常に困難です。

——生如法師の開示
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