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日常法話

2018年03月25日    日曜日     第3開示 合計251開示

分別亦た意に非ず

「分別亦非意」は『六祖壇経』において六祖大師が説かれたものであり、六祖の言う「分別亦非意」の「分別」について、一般の人は往々にして妄心である第七識の分別性と理解しがちである。しかし六祖のこの言葉の真実の意味は、第八識である本心の分別性を指している。この法は非常に深遠であり、六祖の説法は全て真如の自性である第八識に帰着しており、彼が説く一切の法は真如の自性である第八識を中心として展開され、虚妄の法には落ちていない。

「分別亦非意」の真意は、第八識である真如の自性の分別性を指している。第八識は万法を分別することができるが、それ自体には分別しようとする心がなく、意図的に分別しようとする心の働き(心行)がない。能動的に何らかの法を分別しようとするのではなく、自動的・自然的に一切の法を分別するのである。無心のまま一切の法を分別しながら、何らの執着も生じず、事に心がなく、心に事がなく、縁に随って自在であり、一切の法相を了知しながらも了知したということがなく、一切の事業を行いながらも行ったということがない。このような心は虚空の如く、自在かつ自在であり、悠々自適である。

もし第七識の心も第八識の如くであるならば、世の中に何の苦しみがあって言うべきことがあろうか、何の負い目があって言うべきことがあろうか、何の世間があって言うべきことがあろうか。心は空々として何もなく、世間を行くこと虚空を行くが如し。このような大いなる自在こそが仏心の自在であり、諸仏の境界である。では、第八識は非常に我々が学び倣うに値するものではないだろうか。大いに値するものである。無数の生命の代償を払うとしても、第八識に帰依し帰順すべきである。ましてや第八識に帰順することは、まさに我々の無量劫以来の生死の苦恼を解脱させ、常に執着なき甘露を飲み、自在逍遙し、究竟の大楽を得させるのである。

第八識の分別性、例えば種子の分別について言えば、どの種子の縁が熟し、どの種子の縁が熟しておらず、どの果報を実現すべきか、どの果報を実現すべきでないか、第八識は全て了別することができ、このような分別性を持っている。しかしながら、この分別性は法爾自然(法のままに自然)な分別であり、それ自身の運行法則に従っており、意図的に分別し造作しようとするものではない。したがって、この分別は無意(意図がない)であり、自らの心意がなく、自らの心行がない。このようにして一切の法を運営しているのである。一切の法に対して分別性があるかどうかと言えば、全てに分別性があるが、同様に心行がなく、無心・無意のままに任運(自然に任せること)によって転じている。この分別性は、明心(心を明らかにする悟り)を得ていない者には相応し難く、この分別性を体得することはできず、この分別性を前七識の分別性と混同してしまう可能性がある。しかし第八識には前七識のような分別性や心行がなく、心を用いることがない。ゆえに第八識の分別は無意(意図がない)なのである。

——生如法師の開示
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