衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年03月26日    月曜日     第3 回の開示 合計257回の開示

参究工夫の奥義

禅を参ずる時、意識は無念であってもよいが、意根は決して無念であってはならない。すべての念が無ければ、それは純粋に定を修めているだけで、このような無念の定は智慧を生じさせることができず、したがって悟りを開くことも、自性を見ることもできない。

定力が非常に優れている時、意識は無念のように見えるが、実際にはまだ一つの念が心の奥に懸かっている。つまり意根に懸かっており、意根が参究を続け、意識がそれに協力する。資料が十分でデータが完備していれば、意根を主として参究する。もしデータが不足していれば、意根は意識に資料とデータを求め、その後深く参究する。これが真の参究修行の秘密である。もしすべてを知ってしまったら、それはもはや秘密ではない。

意根が意識に資料データを求める時、意識は明らかに思惟分析を行い、分析思惟した内容の結果を意根に渡す。その後、意根は再びこのデータに基づいて参究する。

我々は皆経験があることだが、自分は表面的には何の念も思惟もないように見えても、実際には心の深層は沈静しておらず、まだいくらかの思想の動きが深く隠れている。ちょうど大海の水のように、表面は流れず静かな様子だが、実際にはその流れは非常に激しい。意根はまさにこのようであり、深く密やかで探し難く、奥深く計り知れない。

経験豊かで高度に責任感のある禅師は、弟子の因縁が具足しているかどうかを観察する。もし具足せず、禅定を欠いているならば、弟子が解悟に至り一生活力に満ちることができないのを避けるため、手を下して導くことはしない。異なる禅師の下で悟る場合、その智慧には大きな違いがあり、証量も大きく異なる。したがってどのような禅師に出会うかは、まさに自らの福徳の問題を示しているのである。

——生如法師の開示
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