衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年03月27日    火曜日     第1開示 合計263開示

五蘊観行による我見断

外部の様々な色は如来蔵が共同で変現し、内部の色は自己の如来蔵が変現し、眼根は如来蔵が変現し、眼識は如来蔵が変現する。眼識が色を見る作用は、如来蔵の第七識・第六識・眼識の共同作用であり、内部の色を眼識と意識の中に顕現させる。これら四つの識はそれぞれに作用を持ち、また和合の作用もある。根・塵・識の三者はすべて如来蔵が変現し執持し督導するものであり、この三者を離れては衆生も五蘊も存在しない。では五蘊の衆生とは何か。どこに私が存在し、どこに五蘊があるのか。どれが私なのか。

色を見、声を聞き、香を嗅ぎ、味を嘗め、触を覚え、法を思うこと、一切の見聞覚知、すべての感覚機能、すべての思想と心情は、いったい何なのか。五蘊が依存する法を見出し、これらの法が何であるかを観行し、これらの法はさらに何に依存しているのかを観察せよ。依存性があるということは、真実でないこと、自在でないこと、自主的でないこと、苦・空・無常であること、生滅するもの、幻化したもの、虚妄のものであり、無我なのである。

このような思考に沿って、入定し観行し、思路を整理し、意根に感知させ、覚悟させ、触証させる。すると最後に心の中で声がするだろう:これら一切の法は真実性がなく、すべては一つの茶番劇であると。どこに私がいるのか、どれが私なのか、どれもそうではないと。そして声をあげて泣き、身心脱落し、了って掛碍なきに至る。

この中には一つの過程がある。意根が次第にこの事実を認めようとする時、心理は非常に苦痛で悲しいものとなる。かくも永く執着してきた「私」が、目の前で消え去ろうとしているのだから、心は当然虚ろで恐怖に満ちる。まるで崖の縁に立ち、転落することを非常に憂い、躊躇し、心配し、恐れるようなものだ。何もないと知りながら、何も掴めなくなることを憂う。その心境は非常に焦燥し、かき乱される。しばらくすると受け入れられ、平静を取り戻し正常に戻る。これは今生で初めて我見を断とうとする者が経験する過程であり、前世ですでに多生多世にわたって我見を断ってきた者は、非常に軽く、楽しみ喜びに満ちている。

各人が接触できるものはすべて個人の私有物であり、私有は第二の幻化を表す。虚妄の上にさらに虚妄を重ねるのである。外部の公有も内部の私有も、すべて幻化虚妄であり真実性がなく、すべては鏡に映った像に過ぎない。真に鏡像観を証得するのは初地満心の時であり、初地で修すべき法はすでに修し終えている。

——生如法師の開示
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