分別が智ならず、分別が識である。この句の意味は、阿頼耶識が大智慧の心であり、智性を具えていることを指す。阿頼耶識は六入に染まらないため、六塵の万法を分別せず、これは智識であって、七識心の識性とは異なる。七転識すなわち前七識は分別作用を持ち、主に六塵の境界を分別することができ、識性を具え、識心である。特に第六識は分別性が最も強く、第七識の六塵に対する分別慧は比較的劣り、分別性が弱い。七識が存在する限り、分別するものである。もし七識が分別しなくなれば、深い禅定に入ったか、あるいは滅したか、衆生が睡眠中または昏迷中、あるいは死亡した状態である。そうなれば、衆生は正常に生存することができなくなる。
一方、阿頼耶識は六塵の境界を分別しないが、自ら分別する内容を持っている。なぜなら、結局のところ阿頼耶識は存在し活動する必要があり、三界世間の一切の万法を生み出さなければならないからである。阿頼耶識は必ず分別した後に万法を生じさせることができる。そうでなければ、何をもって万法を生じさせることができようか。阿頼耶識は業種に依存して万法を生じさせるので、必ず業種を了別し、業種に基づいて万法を生じさせることができる。
阿頼耶識が宇宙の器世間と衆生の五陰身の存在を生み出し保持できるならば、必ず宇宙の器世間を了別し、五陰身の状況を了別する。そうでなければ、どのようにして器世間の生住異滅を維持し、五陰身の生老病死を維持することができようか。阿頼耶識は必ず七識の心行を了別できる。そうでなければ、七識に協力し、七識と和合して活動し、一切の法の現行と運転を完成させることができない。そして阿頼耶識の智と七識の識は常に一緒に作用してこそ、真妄和合して一切の法を生み出すことができるのである。
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