悟実の観行記録:
ここ数日、坐禅を組む中で、私は特に妄念がどのように生じるのかを観察してみました。意識心が考えていないのに、妄念が浮かんでくるのは、意識心が別のことに向かい、これが意根が攀縁(はんえん)している状態です。もし意根が攀縁しなければ妄念は生じません。特に、普段から気にかけていること、興味のあることは、夜に坐禅を組むとき、より一層浮かびやすくなります。ですから、日中に心を清らかに静かに保てるかどうかは非常に重要であり、心が清らかで静かであれば、妄念は生じにくいのです。
したがって、日中に物事に対処するときは、事柄に心を奪われず、過ぎ去ったら心に留めないようにすることが肝要です。そうすれば、心は比較的清らかに静かに保たれやすくなり、多くの妄念が生じることはありません。もちろん、事柄(境)に対して無理に心を入れまいと抑圧するのは、あまり効果がありません。煩悩を降伏させるには、抑圧だけに頼ることはできないのです。巧みに心を転じて考えてみるべきです:形あるものはすべて虚妄であり、万法は苦であり、空であり、無常であり、無我であり、色身は不浄である、などと。意識心をこの方向へと繰り返し思惟し、はっきりと思惟できれば、煩悩は消散します。そうして初めて、人や物事に心を奪われなくなり、意根が事柄や境を気にかけることを軽減、あるいは消し去ることができるのです。
評:妄念は意根の攀縁と執念に由来します。意根の五蘊(ごうん)世間に対する執取性は非常に頑固で強情であり、六塵(ろくじん)境界に対する執取も非常に固執しやすく、ほとんど一瞬たりとも休むことがありません。眠りについても同様で、そのため心は清らかな静けさを得られず、智慧は生じず、煩悩は断ち切れません。意根のこのような攀縁性を降伏させるのは非常に困難であり、できるのは意根の攀縁対象を変換し、注意をそらし、一つの法に縁(よ)らせて落ち着かせることだけです。その後でこそ、意根の心はやや純粋になります。これは契機によって契機を除く方法(以契出契)であり、最後にその契機(手段)も取り除けば、心は空(くう)になります。念仏も念呪も念経も、すべて契機によって契機を除く方法です。数息観、白骨観、四念処観など、すべての観行もまた契機によって契機を除く方法です。意根が専注できさえすれば、一つの法を専らに思量し、智慧は生じるのです。
妄念が次々と生じるとき、焦って除滅しようとしてはなりません。それを観察し、その源を探し求めると、妄念は来るべきところなく来り、去るべきところなく去り、根がなく、浮き草のようなものであることに気づくでしょう。ですから、根本的に妄念に対処する必要はなく、新しい所縁(しょえん)を与え、新しい重要な任務を与え、一つのことに忙しくさせるのです。そうすれば心は清らかに静かになり、智慧が現れることができます。意根が智慧を持たないのは、あまりにも攀縁しすぎており、縁する法が多すぎて、専注して思量できず、物事の道理を見極められないからです。当然、智慧は生じません。ですから、智慧を得ようとするなら、禅定を修め、意根を落ち着かせ、一つの問題、一つの法だけに向き合わせる必要があります。そうすれば問題は解決でき、生死の大事も解決できるのです。
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