衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年06月05日    土曜日     第1 回の開示 合計3426回の開示

妄念を智慧に転ずるには

悟実の観行日誌: 

ここ数日の坐禅で、私は特に妄念がどのように生じるかを観察してみた。意識心が考えていないのに妄念が湧くのは、意識心が他のことに向かい、これが意根の攀縁である。意根が攀縁しなければ妄念は生じず、特に普段気にかけていることや興味のあることは、夜の坐禅時に現れやすい。ゆえに日中に心を清浄に保てるかが重要であり、心が清浄であれば妄念は生じにくい。

したがって、日中に事象に対処する際には、事に心を留めず過ぎ去らせること。そうすれば心は清浄になりやすく、多くの妄念は現れない。もちろん、事象(境)を無理に抑え込もうとするのは効果が薄く、煩悩の降伏は抑圧のみでは成し得ない。巧みに念を転じるべきである:凡ての相は虚妄であり、万法は苦・空・無常・無我であり、色身は不浄であると。意識心を繰り返しこの方向へ思惟すれば、煩悩は消散し、人事が心に留まりにくくなり、意根の事象・境への執着が軽減乃至消滅する。 

評:妄念は意根の攀縁と執念に由来する。意根の五蘊世間への執取性は極めて頑なであり、六塵境界への執取も絶え間なく、睡眠中すら継続する。これにより心は清浄を得ず、智慧は生じず、煩悩は断たれない。意根の攀縁性を降伏させるのは困難であり、攀縁対象を転換し注意を向け直し、一法に縁らせて安定させるほかない。これにより意根の思惟は単純化される。これは楔で楔を抜く方法であり、最終的に楔を除けば心は空となる。念仏・念呪・念経は全て楔で楔を抜く方法であり、数息観・白骨観・四念処観等の観行も同様である。意根が一法に専注し思惟すれば、智慧は生じる。 

妄念が叢生する際、焦って除滅せず、それを観察し源を尋ねると、妄念は来る所なく去る所なく根も浮草の如しと気付く。故に対治は不要であり、新たな所縁を与え、重要な任務に忙しくさせれば心は清浄になり智慧が現れる。意根に智慧が無いのは攀縁過多で一法に専注できず、事理を見極められないためである。ゆえに智慧を得るには定を修し、意根を一つの問題・一法に向けさせれば、問題も生死の大事も解決される。

——生如法師の開示
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