如来蔵の了別性は非常に強力であり、如来蔵が了別できない法は一つもありません。なぜなら如来蔵は一切の法を顕現し保持しているからです。もし如来蔵が了別できないならば、一切の法を顕現し変化させ保持することはできません。如来蔵が了別できないものは全て存在しない法です。世俗界に存在し現象として現れているものは、如来蔵が全て了別できます。
如来蔵が了別できる限り、見分(けんぶん)が存在します。如来蔵には見性(けんしょう)があり、見性とは如来蔵自体の了知し執取する性質であり、想心所の機能作用です。見分が存在すれば必ず見の対象相(そうぶん)があり、如来蔵の見の対象相は一切の法であり、一つも欠けることなく全てを照見します。しかし見分も相分も全て如来蔵自身であり、余法なく、全て如来蔵の心内の相です。つまり全て如来蔵そのものです。如来蔵は外に向かって見る必要がなく、外法を見ずにただ自心を見ます。究竟的な意義において実質的には相分は存在せず、全て如来蔵の本体であり、種子も含まれます。もし相分がなければ如来蔵にも見分はなく、見分も意味を失います。何を見るというのでしょうか。自分自身を見るのです。
4
+1