あらゆる衆生が生々世世に行うすべての行為は、大小・善悪・無記を問わず、各人の如来蔵によって記録され、種子として如来蔵に貯蔵される。因縁が成熟した時、如来蔵は蓄積された業の種子を出力し、この因果律を実現する。それにより衆生は相応の果報を受ける。例えば殺害の業において、甲が乙を殺害する際、この過程は双方の如来蔵がそれぞれ記録を行い、業行が消滅しても種子は不滅のまま保存される。後の世で両者が再会した時、互いに認識しているか否かを問わず、因縁が成熟すると各自の如来蔵は業の種子を出力し、殺害された者は甲を殺害しようとする心を起こす。
もし前世において甲が故意ではなく誤って乙を殺害した場合、今世で再会すると、乙もまた故意ではなく誤って甲を殺害することになる。これにより平等に因縁果報が実現され、乙はなぜ甲を殺害したのか理解せず、甲はなぜ殺害されたのか理解しない。両者の殺害・被殺害の業の種子は消滅し、互いに借りはなくなる。もし乙が借りを返済する際に過剰に返済した場合(例えば同時に甲の財産を強奪したり、甲を解体したり、その他の悪行や善行を行った場合)、各自の如来蔵が再び記録を行い、後の世で再会した際に甲が再度乙への債権を回収する。この際に再び過剰に返済すると、乙が再び逆方向に債権を回収し、こうして因果は循環を続け、終わりの日は訪れない。衆生はこのように業の果報が絡み合い、もつれ続け、苦しみは耐え難く、実に憐れむべき状態である。業行は止まず、輪廻は続く。衆生が仏法を学び、仏理を明らかに識別し、業行を清浄にし、悪業を作らず、善縁を多く結び、互いに修行を助け合い、共に法の舟に乗り、彼岸に到るのである。
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