衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年04月23日    月曜日     第4 回の開示 合計406回の開示

無生の理を証することは業を消すことができる

衆生は人間界において比較的仏法を修学しやすい。人間界は苦楽相伴い、苦を知って初めて修行ができる。苦のみでは修行できず、楽のみでも修行できない。苦楽があるからこそ修行が成り立つ。故に世尊は人間界に来て成仏された。天界の衆生は享楽に忙しく修行する心がなく、悪道の衆生は畜生道が愚痴で言語を解さず修行できず、餓鬼道は福徳がなく飢えに苦しみ修行できず、地獄道は苦痛が重なり心識が暗く修行する心がない。俗に言う「金持ちが仏法を学ぶのは難しく、貧しい者が布施するのは難しい」、いずれも修行は困難である。地獄の衆生は苦受が意識を失うほどでなければ、なお思考能力を保ち、神通力で前世の業行を知り、道理を理解する者は前世の行いを悔い、理解しない者は懺悔を知らない。

仏法を学ぶ者と学ばない者が地獄に堕ちる業を造る場合、また福徳ある者とない者が地獄に堕ちる場合、その果報は異なる。道理を明らかにすればするほど速やかに脱出できる。ある者が地獄の門前で『華厳経』の偈「若し人が知らんと欲すれば、三世の一切仏は、応に法界の性を観るべし、一切は唯心の造る所なり」を一念すれば、地獄も自心の造り出すものと悟り、地獄から脱出し、地獄の相はその心中に消滅する。故に法を理解し道理を明らかにすることは非常に良い。五蘊虚妄の理を証得すれば、三結が断たれ、三悪道の業は消滅する。「我」がなければ、どこに三悪道があろうか。どこに三悪道の業があろうか。全て虚妄であるなら、このように業を消すことが何と良いことか。

『大般涅槃経』において、世尊が阿闍世王の業を消すため「父とは何か。父の五蘊は父ではない。単独の蘊も父ではなく、和合しても父ではない。父という法はなく、父という人もなく、阿闍世王という人もない。父を殺す業も虚妄で実体がない」と説かれた。阿闍世王はこの理を聞き、阿羅漢果は証得しなかったが、地獄の業は消え、再び地獄に堕ちることはなくなった。

大乗の法による消業も同様に殊勝である。勇施菩薩が重罪を犯して無生を悟った故事がある。勇施比丘がある女性施主の家で托鉢した際、女性は彼を気に入り関係を迫ったが、彼は従わなかった。女性は飯に幻薬を混ぜて彼に食べさせ、彼は自制できず関係を持ち、以後も交際が続いた。女性の夫が知って激怒すると、比丘は女性に「彼を毒殺せよ」と唆し、夫は毒殺された。勇施は後でこれを知り大いに悔い、二つの大罪を犯したため必ず地獄に堕ちると悟り、正気を失って狂い、文殊菩薩を訪ねた。文殊菩薩は「世尊に委ねよ」と言い、世尊は事情を尋ね無生の理で導かれた。一切の事が虚妄であること、我と人が虚妄であることを分析され、勇施はこれを聞いて大乗の無生の理を悟り、菩薩として開悟した。三悪道の業も消え、地獄で苦しむことはなくなった。これは実相懺悔法に等しい。実相の法においては人も我もなく、犯者も被害者もなく、業を造ることもない。誰が業を造るのか。存在しないのである。これらの法を細かに思惟し、慧眼が開ければ無生を証得するであろう。

——生如法師の開示
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