八十二口の観行日誌:師父の教えに従い静中の定を修習し、観呼吸から始め、心を静めた後、「色身は我ならず」という念を心に置いて観照しつつ、言葉を離れた無心の状態に入りました。次第に身体が覚知心から遠ざかり、安定を保ち難く感じられました。座を下りた後は身体が軽快で安らぎ、まるで大夢から覚めたようで、以前のような疲労感はなく、ただ頭部が締め付けられるような痺れを十余分間持続しました。師父のご指導に感謝します。仏法を学ぶにはまず自らの意根の習気を変える決心を下す必要があり、目標を得たことで心が随分と軽くなりました。
評:格物致知という言葉があります。心が境界から分離し、境界に執着せず、境界に染まらなければ、境界に束縛されず、境界を超越して客観的に観察でき、客観的な結論を得られるという意味です。逆に心が境界と一体化すると、境界に心智を覆われ、真理や事実を見失います。
禅定における観行とはまさに格物致知であり、心を法から引き離し、言語文字を超えて客観的に法を再検証することです。主観性を排すれば、次第に従来とは異なる客観的発見が生じ、真理を認識することで解脱の智慧が生起します。主観的能動性は意識の働きであり、客観的感知は意根の役目です。格物とは意識を静止させ、意根に直接感知させることで、初めて公正で道理に適った発見が得られ、従来の誤りを悟るのです。
禅定と観行を修めなければ、永遠に格物致知できず、意根の我見我執を変革できず、無明の闇に留まります。解脱への道程は開けません。禅定と観行という関門は如何に困難でも突破を決意すべきです。これこそが多生にわたる仏道修行への真摯な姿勢です。真実を証し解脱を得る道は他になく、遅かれ早かれ通らねばならない道です。早く歩みを進めれば、多くの苦しみを減らせるのです。
8
+1