衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年05月08日    火曜日     第2 回の開示 合計455回の開示

真実法と虚妄法を弁える仏道修学

十二因縁におけるそれぞれの連鎖は無生であり、真実ではなく虚妄であり、如来蔵によって初めて存在し得るものである。表面的には生があるように見え、相は存在するが、本質は無である。しかしその背後には確かに真実の法が存在しており、そうでなければ虚妄の法は存在し得ない。この真実は我々が執着しようとしまいと、認めようと認めまいと、常に真実として存在している。執着しても存在し、執着しなくても存在する。貪りを抱こうが抱くまいが、認めようが認めまいが、見えずとも見つからずとも、依然として存在し、本然の機能を果たしている。

したがって仏法を学ぶ者は真実と虚妄という二つの本質を分離し、徹底的に区別すべきである。そうして初めて事物の本質を認識できる。混同して論じてはならない。混同すれば真実も認識できず、虚妄も認識できず、真実を虚妄と見なし、虚妄を真実と見做してしまう。これらの区別がつかない限り、生死の大事は解決されない。衆生が悟りを証得できない根本原因は、真法と妄法が分離されておらず、両者の本質が明確に理解されていないためであり、認識が誤り、智慧が開けないのである。

例えば十二因縁において「名色が縁となって六入が生じ、六入が縁となって触が生ず」とは、名色があるからこそ六根が存在し、六入が生じるという意味である。なぜ名色があれば六入が存在するのか。この六入はどこから来るのか。六入(六根)が天から降ってきたのでもなく、自然に生じたのでもないことは明らかである。名色(受精卵)において、如来蔵が六根を変現させたのである。このように前の連鎖が縁となり、次の連鎖を引き起こす。次の連鎖は如来蔵によって生じ、前の連鎖の縁を借りて現れる。

さらに「六入が縁となって触が生じ、触が縁となって受が生ず」とは、六入があるから触が存在するという意味である。六入(六根)が自ら積極的に何かに触れることができようか。決してできない。背後に如来蔵が存在するからこそ、六入は六塵の境界に触れるのである。触が縁となって受が生ずるとは、触があることで六根が六塵に触れ、感受が生じることを指す。ではこの感受はどこから来るのか。誰が感受するのか。六根が六塵に触れた後、六根自らが感受を生じることも、感受を持つこともできない。六塵も感受を生じず、感受を持つこともない。触そのものも感受を生じず、感受を持つこともない。感受は決して触から来るのではなく、触自体が実体ではなく虚妄の存在であるため、受を生じることはできない。生滅せず、種子を持つ存在、つまり如来蔵によって初めて感受が生じるのである。故にこの受も如来蔵から来る。

要約すれば十二因縁の十二連鎖は全て如来蔵から生じ、如来蔵によって現出する。一つの連鎖が次の連鎖の縁となり、因は如来蔵そのものである。故に十二因縁の十二連鎖は全て縁であり、その中に因を含む。この因こそ如来蔵である。最終的に仏陀が「識が縁となって名色が生じ、名色が縁となって識が生ず」と総括された。ここでの識とは阿頼耶識を指す。阿頼耶識は名色に依存して初めて顕現し作用し、名色は阿頼耶識に依存して初めて生じ存在する。阿頼耶識は名色・色身・五蘊を縁じ(生じさせ引き起こし)、名色はこの阿頼耶識(如来蔵)によって生じるのである。

——生如法師の開示
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