この神通はいかに容易に修得できるものと感じられるだろうか。意識による感覚・理解は証得したことになるのだろうか。もし証得したのであれば、神通はたちどころに現れるはずである。神通が現れないのであれば、神通を証得していないのであり、その場合、意識による理解は何の役にも立たず、力を発揮できず、少したりとも解脱の功徳受用を得ることはできない。断我見(ahaṃkāra-mamakāra-parityāga)と明心も同様であり、意識による理解には少しの功徳受用もなく、真の断我見ではない。意識がいかに五陰(pañca-skandha)は無我であると考えようとも、それは無我の証得ではなく、断我見ではない。それゆえ、書を百読すれば義おのずから現れる、といっても役には立たず、依然としてそれは意識の解であって、意根の証ではない。この道理はきわめて重要である。諸氏におかれては心に入めて細かに思考し、再び情思意解を尊しとし、大いものとし、貴いものとすることなく、自ら誤ってさらに人を誤ることのないよう願う。
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