今の人は皆禅定を修めず、禅定を修めることができず、口先ばかりで、二、三冊の本を読み、意識で理解しただけで悟りを得たと思い込み、解悟ですらなく、証悟だと称します。故に末法の衆生に意根と意識の区別を理解させ、大衆に解悟とは何か、証悟とは何かを知らしめ、衆生が大妄語を避ける必要があります。
末法の世の混乱は甚だ深刻で、衆生の情執は深く重く、口では常に法に依り人に依るなと説きながら、実際はその逆です。もし衆生が皆理にかなって法の如く修行し、真に法に依り人に依らず、スローガンを少なくし、実際のことを多く行い、できる限り完遂し、真に仏の説かれたことに依るならば、仏も安心され、仏に背かず教えに従うことが、即ち仏恩に報いることとなります。
情執を少し降伏させれば、事実の真相が少し見えてきます。道業を重んじ、情執を重んじてはなりません。情執は人を救えず、各自の業は各自が受け、誰も代わることはできません。もし心を大きくし、精力を充実させるならば、仏教を重んじ、衆生の生死を重んじるべきです。そしてまず仏陀の恩恵を理解し、仏陀の恩に報いる方法を考え、言葉や行いで仏陀を悲しませてはなりません。如来蔵が刹那刹那に種子を蓄えていることを知り、私たちが言葉を発し行動する身口意のすべての瞬間に、如来蔵が監視し記録していることを悟らねばなりません。故に私たちは必ず如来蔵を畏敬し、因果を畏敬すべきです。口先で叫ぶだけで実際は違うということがあってはなりません。
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