私たちが今得て受用している一切の法は、すべて如来蔵の庫房から取り出されたものです。庫房の中にあるものは、みな以前に私たち自身が自分で預け入れたものです。つまり、何を預けたかによって、何を使えるのであり、預けなければ何もありません。私たちが仏になろうとするなら、多くの善い業種を預け入れなければなりません。種子を預け入れて初めて、将来それを受用できるのです。私たちが福報を得ようとするなら、修福の種子を預け入れなければなりません。もし修福の種子を預け入れていなければ、福報を得ようとしても、それは不可能です。私たちが何かを得ようとするなら、必ずそれを預け入れなければなりません。何を預け入れたかによって、何を得るのです。だからこそ、私たちの身口意行をよく選択し、どのように造作すべきかをわきまえて、自分が最大の真実の利益を得られるようにし、自分の利益を損ない、背くことのないようにしなければなりません。私たちは慎重に造作し、選択して造作し、できる限りすべて清浄 (viśuddha/pariśuddha) の業行を造作するようにしなければなりません。
私たちの五陰 (pañca-skandha) もまた、如来蔵の庫房の中の種子から来ています。意根の無明のために、絶えず六識の身口意行が生じ、身口意行の種子は絶えず如来蔵の心体の中に預け入れられます。命終のとき縁に遇えば、如来蔵は業種を出力し、六道の中に投胎して、五陰身を生じさせ、業の果報を受用させるのです。だから五陰身はすべて如来蔵の庫房の中の種子から来ているのであり、ならば五陰の全体がすなわち如来蔵なのです。
たとえば空の白い雲が、猫や犬の形相を現すことができるように、その白い雲が変化してできた猫や犬は、白くてふくふくとして、とても愛らしいものです。猫や犬の姿を貪愛する人がいて、それがみな一団一団の白い雲からできていることを完全に忘れてしまうのです。白い雲を如来蔵に譬えれば、猫や犬の形象は私たちの五陰身のようなものです。猫や犬を観察してみると、白い雲でないところは一箇所もなく、どの一点一点も、すべて白い雲から構成されており、猫や犬の全体がすべて白い雲であり、あらゆる面が白い雲から来ています。同理として、私たちの五陰も、あらゆる面において、常にあらゆるところにおいて、すべて如来蔵から来ています。いかなる相貌と作用も、すべて如来蔵の庫房から来ており、五陰身のすべての材料は庫房から来ており、五陰が受用する一切、造作する一切は、すべて庫房である如来蔵から来ているのです。
もし如来蔵の庫房の入り口を見つけ、開悟して仏になりたいなら、実はそれほど難しいことではありません。難しさはどこにあるのでしょうか。それは、私たちの福德が具足しておらず、定力が具足しておらず、慧力 (prajñā-bala) が具足しておらず、菩薩の六度の条件が具足しておらず、願力も具足していないことにあります。こうして自分自身が難しさに阻まれているのです。もしこれらの条件がすべて具足すれば、世上に難しいことはありません。難しいのは、私たちが十分な善業の種子を預け入れていないことにあるのです。種子が不足していれば、私たちは庫房から十分な資源を取り出すことができず、明心見性も非常に困難に思われ、断我見 (ahaṃkāra-mamakāra-parityāga) を成し遂げようとしても、同様に非常に困難です。十分な資源と福德を受用したい、自性清浄心を証得したいなら、必ず多くの善業の種子を預け入れなければなりません。戒定慧の修行の種子、菩薩の六度の修行の種子、菩薩の大福德の種子など、私たちは多く預け入れるようにし、これらの種子が足りるようになって初めて、大小乗の道果を証得することができるのです。
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