衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年04月27日    火曜日     第2 回の開示 合計3350回の開示

「止観の二道」

問:止を修めるとは、意根で一念を持続して動かないように見守ることを指すのか、それとも内心で一念も生じないことを指すのでしょうか? 

答:止とは、停止・止息・止住の意味、つまり定(じょう)・定住不動の意味です。何が何を止め定めるのか。身が止まり定まることで、第六識と第七識を止め定めます。主に第六識と第七識が自らを止め定めるのです。身の行為が止息すると、身識と意識は次第に止息していきますが、滅するのではなく、微細な感知状態が残ります。六識が動かなくなると、第七識はもはや動くことができず、六識が追随しないため、第七識も自然に止まります。ただし第七識はその特別な地位と作用により、必ず法と身を縁とします。ただ縁する法が少なく動きが微細になるだけです。

もし意識が一念に縁って動かない状態なら、まだ念があるため、これは観の範囲に属します。意識が観じる時、第七識である意根は必ず意識の観じる法を縁とし、時間が経てば意根も観じるようになります。意根が一旦専注して観じ始めれば、正しい道を歩むようになり、遅かれ早かれ事実の真相を見ることになります。これが四念住の観行です。 

一方、一念も生じない状態とは、意識に念がなく、観もなく、完全に止息して動かなくなった状態です。第七識である意根は完全に止息できず、必ず念があります。重要なのは何を念じ、どれだけ専一であるかです。もし専一にできて疑情があれば、参究している状態です。これは深層的な参禅方法となり得ますが、修めるのが難しく、一般には適切に把握できません。観行によって意識の有知状態を把握する方が容易です。ただし、修めにくい方法ほど功夫が得られやすく、道に適い証得しやすくなります。一旦証得すれば、その智慧の証量は極めて高くなります。

——生如法師の開示
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