如来蔵には如来蔵の体性があり、蘊処界には蘊処界の体性がある。この二者は全く異なる。しかし蘊処界には自体性がなく、その一切の体性・機能・作用は如来蔵によって与えられたものである。如来蔵がなければ蘊処界は存在しないが、蘊処界がなくても如来蔵は存在する。如来蔵は自ら単独で存在でき、外縁に依存しない。ただし如来蔵が顕現するには蘊処界を依りどころとする必要があり、蘊処界の活動の中に如来蔵を見出すことができる。
蘊とは色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊を指す。処とは十二処、すなわち六根処と六塵処を合わせたもの。界とは十八界、すなわち六根界・六塵界・六識界を合わせたものである。如来蔵はこれらの法の所在する処を離れずに顕現するが、これらの法を離れても存在できる。六根・六塵・六識の全体は如来蔵の真実の作用であり、全て如来蔵そのものである。しかし如来蔵は六根・六塵・六識ではない。渠今正是我、我今不是渠とはこの意味である。渠とは蘊処界を指し、我とは如来蔵を指す。蘊処界は即ち如来蔵であるが、如来蔵は蘊処界ではない。
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