無明があるのは五陰七識の心であり、無明を滅するのは識心の無明を滅することである。したがって修行において法身如来蔵を修める必要はなく、この仮の自我を修めればよい。修行を通じて、識心の一念の無明・無始の無明・塵沙の無明を除去する。無明が滅し尽くせば即ち本来の仏である。さもなければ、この尊い仏は五陰識心の無明に引きずられ、自らの本来の面目を現すことができない。如来蔵は宝珠が五陰の中に埋もれているようなもので、埋もれていてもなお光を放ち地を震わせ、常に自らの本分の職責を果たし、決して心を動かす念を生じない。我々は彼をよく学ぶべきであり、学び通達すれば即ち仏世尊となるのである。
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