衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年06月05日    火曜日     第2 回の開示 合計593回の開示

如来蔵に証自証分はあるのでしょうか

凡夫にとって、如来蔵には自己を省みる機能がないため、自証分も証自証分も持たないと言われます。証自証分とは自己の存在を証明し、自己の存在と作用を感知する働きを指します。自己の存在を感知し得る心は我性ある心であり、自己を自認する心、自らの存在を自証し得る心です。

意識心は法塵を観じ、境界を観察し、五識と第七識を観照し、明心後には如来蔵を観ることができます。意識心は自己をも観察するため、自証分のみならず証自証分も具えています。意識心は法塵の境界を了知している自らを認識し、自己の運行状態を了知し、自らの心行を把握します。これに対し真覚たる如来蔵は我性を持たず、無我の心です。常に自らの実在性を認めず、自己の存在を感知せず、主宰的働きもせず、六塵を観ることもありません。故に如来蔵は六塵の領域において自証分も証自証分も有しません。六塵を覚知しないがゆえに、境界に対し心を動かさず、想念も知見もなく、清浄無垢で煩悩も習気も無明もありません。

明心悟道を果たし智慧が増長するに従い、第七識と如来蔵にも証自証分が備わっていることが観じられますが、それらは六塵の境界において自己を反照するものではありません。大乗仏法を学ぶ際の総則として、如来蔵は五蘊十八界に属する世俗の心ではなく、我性なき心であり、我と我所の存在を認めないと理解すべきです。これに対し七つの識心はいずれも我性を具え、常に「我が如何」「我と我がもの」という意識を有し、我と我所の観念を保持しています。

——生如法師の開示
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