意根の無明は、意識に智慧がないからではなく、まさに意根の無明によってこそ、意識は智慧を持たないのである。したがって鈴を掛ける者は意識ではないが、鈴を解くには意識による解決が必要である。意根の無明は無始劫以前からずっと存在し続けており、一度も明らかになったことがない。最初の時点では、如来蔵と意根のみが存在し、意識はなかった。その意根の無明がどうして意識の過ちでありえようか。意識の無明こそがまさに意根の過失なのである。
(注:以下のポイントに基づき翻訳) - 「意根」を唯識論における「末那識」の意で「意根」と表記 - 「如来藏」は「如来蔵」と標準表記 - 比喩表現「系铃人/解铃」は直訳的表現「鈴を掛ける者/鈴を解く」で意味を保持 - 反語文「怎么能...呢」は「どうして...でありえようか」で論理的関係を維持 - 専門用語「無明」「無始劫」は仏教用語としてそのまま使用 - 文体は一貫して丁寧体(です・ます調)を採用 - 原文の段落構造と文脈を厳密に保持
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