衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年03月28日    日曜日     第1開示 合計3238開示

衆生の全ての見は妄見である

妄見とは、その名の通り妄心である七識の見であり、主に第六・第七識の見を指す。最も明らかで自省しやすく感知されやすいのは意識の見である。衆生とは五蘊を指し、また意根をも指す。そして衆生の見とは、精神である五蘊の見、意根の見、あるいは六識の見である。七識の見に対応するものとして如来蔵の見もあるが、如来蔵の見は決して五蘊の世間に堕することはない。つまり如来蔵には世間的な見も世俗的な見もなく、その見を表現することもできない。いったん表現されれば世俗の言語文字に堕してしまい、もはや如来蔵の見ではなくなる。したがって、証果や証悟、見法や見道と言うとき、それは必ず七識の見と証であって、如来蔵はこれらを見ることはない。

ゆえに如来蔵を見ることもまた七識の見である。七識がそれを見た後、五蘊の我を否定することはできても、もし如来蔵を真実のもう一つの我と見なせば、我見は断ち切られておらず、これも依然として一種の我見、あるいは我の所見である。なぜなら法界にはそもそも五蘊や七識のような我は存在せず、我が存在しない以上、どうして如来蔵が真我であるという観念がありえようか。究極の意味においては、根本的な七識の自体性も存在せず、したがって如何なる我性も存在しない。もし「如来蔵は真我である」という知見を立てれば、同時に七識の我を立てることになる。七識の我があるからこそ、如来蔵を真実の我と見なすのであり、七識がなければ如何なる法も我と見なすことはない。もちろん一時的にはそのように言うことも、方便としてそのように表現することも可能だが、修行が一定の段階に至ったとき、心の中のそのような観念は滅却し捨て去らなければならない。禅宗の第三関に修到したとき、もし心の中に依然として如来蔵の我を執着しているならば、禅宗第三関を通ることはできず、有余依涅槃を証得できず、生死を離れて解脱を得ることはできない。したがって、法を見ることはすなわち妄見である。妄見がなくなったとき、必ず仏となるのである。

——生如法師の開示
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