衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年12月17日    月曜日     第2 回の開示 合計1108回の開示

我見を断つことは容易なことではありません

仏教を学び始めた人には皆疑問があります。疑問を解決しなければ、修行の進歩が阻害されます。ですから、疑問を解決する方法を考えるべきです。第一に他者に尋ねて疑問を解き、第二に教えを受けた後、自分で思考を重ね、証拠を探し、自ら疑問を解消しなければなりません。

明らかに多くの疑問があるのに解決せず、ひたすら禅定で疑問を覆い隠すなら、どうして疑問を解消し智慧を得られるでしょうか。

身体を「我」と見做さないために、無情物を自分の身体と想像し、様々に空想しながら、なぜ色身が「我」ではないのかを決して考えません。これでは依然として色身の「我」が存在し、束縛から解脱できません。そしてこの色身の我見を断ち切らないまま、識心の作用が「我」ではないと想像しますが、こうした空想は依然として美しい感受への貪愛であり、現在の苦の感受を別の楽の感受で置き換えるに過ぎません。全ての感受がなぜ「我」ではなく不実であり、なぜ生滅変異して無常なのかを仔細に観察しません。このように真理に従って思惟せず、現実逃避して空想に耽ることも、一種の貪愛と束縛です。以降の内容も全て同様で、空想と情意的解釈ばかりで観行の体験と過程がなく、これは真の修行ではなく現実逃避です。

理数系が得意な人は論理的思考力に優れ、仏法の観行に活用でき実用的です。一方、文人墨客は仏教を研究と情意的解釈に頼り、観行を理解せず真理に沿った思考ができません。結果として文人墨客は理解力と研究力に優れ文章能力が高いため、何も悟りを得ていないのに次々と理論的文章を発表し、人々を眩惑させてしまいます。

世の中で真の悟りを開いた者が何人いるでしょうか。孫悟空の火眼金睛のように全ての偽装を見破り、真実を顕現させる者が。仏教修行は果位を求め果実を得ることではなく、真実の解脱の智慧を獲得し、心の境地が解脱に至ることが根本目的です。果位や虚名を求めるのは本末転倒であり、本来解脱していないのに新たな束縛を加え、自ら縄を巻くようなものです。虚栄を求めるのもまた「我」ではないですか。どうして我見を断ち切れましょうか。末法の世の衆生は福徳薄く、修行を逆様に行います。我見を破るべきところで却って我見を増やし、無我を目指すべきところで至る所に「我」が存在します。修行の本質的な意義を理解せず、理解しようともしません。仏教を学ぶのも結局「私」のため、「私が如何に」というのは道理に背いており、求めれば求めるほど速く走り、作為を増せば増すほど道から遠ざかります。我見を断つのは本当に難しく、容易なことではありません。本を数冊読み推量しただけで、無我の果実をポケットに収めたような人々とは違います。まだまだ先は長く、八万四千里の长征が始まったばかりです。焦って果実を得ようとするのも依然として「我」の心の範囲を出ません。「私が悟りを得る」というこの「我」があって、どうして悟りを得られましょうか。「私が聖人になる」というこの「我」があって、どうして聖人であり得ましょうか。

——生如法師の開示
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