意根の倒錯した想いとは、仮のものを真実と見なし、如来蔵が幻化した影像を実体視し、如来蔵という鏡に映る影像を外界の実在的本質境と錯覚し、偽りをもって真実を乱すことである。生生世世にわたり自らを欺き他者を欺く。意根は六識を制御し指揮して、鏡の中の人物事を絶えず操り、鏡面において休むことなく造作を重ねる。造作が深刻化し、業種が多量に蓄積されると、ついには鏡の外側の実体にも影響が及び、本質境を変化させ、因果関係に変容が生じる。
意根が無明を打破した後、万法は全て幻化であると悟りながらも、六道三界において従前通り事を行う。しかし三界の人事物理に心を留めず、これにより三界六道の生死輪廻の苦から解脱し、心に倒錯が生じない。
しかし究竟理地において、輪廻という事実は存在するのか。輪廻する主体は存在するのか。存在しない。臨終時に身根が滅失して存在しなくなり、身根は輪廻せず、意識と五識も臨終時に消滅して存在しなくなるため、確実に輪廻しない。そして意根は生生世世を経ても滅することなく、前世も後世も存在しないため、当然輪廻の議論自体が成り立たない。第八識は更に輪廻せず、同様に前後世を持たず、ましてや六道とは無関係であり、苦も受けない。では誰が輪廻するのか。輪廻するものなど存在しない。
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