ある魔術師が空中に無数の色とりどりの天華を化現し、さらに天狗や天猫をも化現した。問う:この魔術師自体は真実に存在するのか。それとも方便として説かれた仮の存在で、実体がないのか。もし魔術師が真実に存在し、如来蔵が真実に存在しないとするならば、万法はどのように出現したのか、まさに魔術師たる如来蔵が化現したのではないか。如来蔵が真実に存在せずに一切の法を化現できるというのは不可能である。その人が存在しないのに、その人が食事をしているというのは論理に合わない。倉庫が存在しないのに無量のものを収蔵できるというのも論理に合わない。
実体の「実」という字の意味は、真実に存在することを指し、有であり、虚偽や仮のものではない。形や相があり触知可能な実有とは本質的に異なる。見て触れられる「実」は仮の実であって真実の有ではなく、幻化された仮の相である。それは見えず触れられない実相の心(如来蔵)によって幻化されたものである。実相の心たる如来蔵の「実」は見えず、触れられず、相貌を持たないが、心体は虚妄なく存在し、真実の作用を有し、真実に存在する。世間・出世間においてこれのみが実であり、その他一切は虚である。
『楞厳経』において世尊が「猶お真に非ず、真に非ず」と説かれた意味は、衆生の阿頼耶識がまだ真実の我ではなく、完全に真実ではないことを指す。なぜなら心体にはなお七識が造作した生滅の種子が含蔵されており、種子にはまだ生滅性が残り、常楽我浄の我でもなく、完全に常住不変のものではないからである。仏に成るに至って初めて、無垢識こそが真実の我となり、完全なる真実となる。もはや種子の生滅変異がなく、常楽我浄となったのである。
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