世俗の争いは、全ての人を心身共に疲弊させます。もう争うのは止め、自我を捨てましょう!あなたも良く、私も良く、皆が良くなるなら、なんと楽しいことでしょうか!どうして自分だけが良くて他人が駄目だというのでしょうか?なぜでしょう?それぞれの心の中にある「私」という存在は、まるで巨石のように重く、息もできないほど圧し掛かり、日々、月々、年々、生々世々を通じて、非常に苦しく、疲れ、重苦しく生きています。今から私たちは「無我」という道具を使って、少しずつこの「有我」の巨石を叩き壊し、大石を小石に、小石を砂利に、砂利を少しずつ心から離れ消え去らせなければなりません。そうすれば心は軽やかになり重苦しさが消え、心は解脱して自在となり、心は喜びと楽しみと安らぎに満たされるのです。
多くの人々が「大道は至極簡素である」と口にしますが、その簡素さはどこにあるのでしょう?ここにあります。ただ自我を捨て、自我を取り除けば、即ち無我に至るのです。しかし実行するとなると簡単ではありません。なぜでしょうか?習気が深く根を下ろし、自心の覆いが甚だしく重いため、自我を捨てるのが極めて難しく、自我を見破ることさえ困難であるのに、ましてや捨てることなどなおさらです。
仏道を学び修行する目標は無我を証得し解脱することにあります。それなのにどうして私たちは個人の自我の利益を追求するのでしょうか?これは自らの初心に背くものではありませんか?仏道を学んで無我の果を証得できない原因は、心に「私」が存在し、無我と相応しないからです。「私」があることは障害石であり道を阻む虎です。どうして早急に除去しないのでしょうか?
智慧ある者なら、無我の果を求めながら一方で自我を中心に据え、様々な「私」を擁護し、小我の私利を追求し、道に逆らい背くような不賢明なことはしないでしょう。どうしてこれほど矛盾するのでしょうか?無始以来の自我への執着による煩悩の習気が原因なのです。もし自らがこの心の煩悩の汚れに気付かず観察せず、対処する方法も考えず、常に我が心我が性に従い流されるなら、いつ無我解脱を得られるでしょうか?解脱の自在さと安楽か、自我の束縛の自在さと安楽か。両者を比べればどちらを選ぶべきか。多くの人は理解はできても実行が曖昧なため、無我の理を証得できず解脱の果を得られないのです。
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