すべての有情はそれぞれに本来の面目を具えており、元来より大いなる光明を放ち、常に万法を利用し、維持し、顕現している。これによって有情は正常な生命活動を営むことができるのである。有情が執着しようとしまいと、妄想があろうとなかろうと、顕倒していようといまいと、本来の面目は清浄に顕現し作用しており、煩悩や妄想、顕倒をことごとく滅尽しなければこれを証得する必要などないのである。菩薩はみな煩悩のただ中に菩提を求める。なぜなら煩悩こそが菩提の顕現であり、煩悩あるところ必ず菩提があるからだ。ゆえに煩悩の現れるところに菩提を見出すことができるのである。
煩悩を滅尽したものが阿羅漢であり、妄想顕倒を滅尽したものが仏世尊である。これらは皆、菩提を証得した後の結果と果報である。六道の生死に業障を負う凡夫の身にも、同様に本来の面目が備わっており、天地を照らし貫徹して障りない。したがって凡夫が煩悩のただ中で本来の面目を証得すれば、もはや凡夫ではない。その後徐々に煩悩を断じ、すべての執着を断ち切り、顕倒妄想と染汚を取り除いて、究竟の仏となるのである。
世尊が成道された直後にこう仰せになった。「奇なるかな、大地の衆生は皆如来の智慧徳相を具えるが、ただ煩悩妄想のために証得できず」。世尊の御意は、衆生は本来より本来の面目を具えているが、ただ証得できないだけであると。そしてこれを証得するに当たって、必ずしも煩悩妄想顕倒をことごとく滅尽する必要はないのである。
仏はこう説かれた。「菩薩は煩悩を離れずして菩提を証す」と。つまり菩薩たちは煩悩のただ中で菩提心を見出し、菩提心を得た後は煩悩が次第に脱落し、ついには煩悩が消滅し、習気も滅尽し、無明も断じ尽くされるのである。菩提の本来面目を証得する以前には、煩悩習気や顕倒妄想を滅尽することは不可能なのである。
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