第八識はあたかも清らかな家のようなものである。七識が業を造った後、種子が絶えず第八識に蓄積されると、家の中に物が詰め込まれた状態となる。何を入れようとも家そのものは清らかであるが、家と中身を合わせれば不垢不浄となる。また清らかなコップに様々な水を注げば、杯中の水は不垢不浄となる。どんな水を注ごうとも、コップ自体は清らかなままである。我々がなすべきは、不浄な水を濾過して清浄な水とし、杯中の水を全て清らかにすることである。
汚染された心は全て自己中心的な我に満ちており、心の業行は甚だ穢れている。これでは第八識の純粋な心体と相応しない。自己を改造しようとするならば、絶えず自己の私心我執を呵責し、次第に第八識の本体と相応するよう努めねばならない。そうすれば徐々に穢れた六道輪廻の苦から脱し、解脱成仏の道へ向かえる。常に自心を観察し、自己本位の心を見出したら即座に反省して自らを叱責すべきである。心を緩めず、自己に甘えず、自らに高度な責任を負い、個人の生死を思い、速やかな解脱を願い、自己解放を志向せねばならない。
心中の自我を平らかにして空無と相応すれば、無我の理を殊更に観行せずとも速やかに無我を証得できる。要は心を単純に保つことである。無我の心とは即ち単純な心、清浄な心、他者を利する心である。有我の心は穢れた心、汚れた心であり、その結果は自らを傷つけ、より多くの生死輪廻の苦を受けることとなる。
我々は智慧をもって有我と無我の利害得失を秤にかけるべきである。もし心の業行が自己利益を求めるものであれば、表面的には何かを得ているように見えても、仮に得たとしてもそれは世間的な暫定的利益に過ぎず、享受し尽くせば跡形もなく消える。それに対し、出世間的な生死の苦悩からの解脱という利益は得られないままであろう。これこそが最も長遠で不生不滅の果徳であり、三無量劫を経て成仏するまで享受でき、成仏後も決して消滅せず、無限の時劫にわたって我々を利するのである。我々は結局どの果を求めるべきか。どの報いを受けたいのか。
智者は目を長く放つべきである。より長遠であればあるほど智慧が増し、来世、未来世、生生世世、無量劫にまで及べば、その利益はますます大きく広がる。無智の者は鼠の目先しか見えず、ただ眼前の些細な個人の利益のみを考え、しかも必ずしも得られない。この小さな利益のために心を尽くし頭を悩ませ、ついには計算を巡らせすぎて、己が命さえも失うのである。
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