初果で我見を断った後、さらに五陰十八界の虚妄を深く観行して熏修し、徐々に我執を断ち始めます。我執を断つことはさらに難しく、初果の者は七度天上に生まれ、七度人間界で修行を繰り返し、最終的に四果の阿羅漢となります。計算してみれば、七度の天上と七度の人間界を合わせるとどれほどの時間か、それを算出すれば我執を断つことが如何に容易でないか、我見を断つことより無数倍困難であることが分かります。
我執とは何か。それは意根が五陰の自我に執着して捨てないことです。なぜまだ執着するのか。五陰の自我に対する我見が徹底的に断たれておらず、依然としてある面ある程度において五陰の某些の機能作用を自己と見做し、執着して離さないからです。無始以来の自我に執着する習気が深すぎ、無明が重く、三界への貪愛が抜き難いため、これほど長い時間をかけて我執の煩悩を断除する必要があるのです。もし意根が一度に五陰の我見を徹底的に断てば、その我執は同時に断じ尽くされ、それが即ち四果の大阿羅漢です。そして真に意根の自我への執着を断じ尽くした者は、直接仏陀となります。単なる四果の俱解脱大阿羅漢ではなく、故に阿羅漢や辟支仏の我執は徹底的究竟的に断じ尽くされておらず、まだ仏陀には成れないのです。
第八識がなぜ我見を断つ必要がないのか。それ自体に我見が無い故に我見を断つ必要がなく、我見ある者が初めて我見を断つ必要があるのです。
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