道理から言えば、あらゆる識心、第八識を含めて念(心の働き)を有し、念心所が存在する。ただし念の方式と内容が異なるに過ぎない。第七識と第八識の二つの識の作用はあまりにも深微で隠密であるため、定慧が不足する者には全く観察することができず、従ってこれらの二識の心念は如何なる手段を用いても了別することができない。唯識種智を具足した後に初めて、その一部を徐々に観察し得るのである。
六祖壇経において六祖は説かれている:真如には念無くして不念無し。実のところ、どの法が真如の念い出したものでないと言えようか。真如には知無くして不知無し。真如の知らぬ法がどこにあろうか。知らなければ変造も執持もできず、念わなければ万法は休廃する。肝要は、第八識が如何に念じ、何を念じ、如何に知り、何を知るかにある。第八識の念と知を六識の念と知に等同させてはならず、また第七識の念と知に等同させてもならない。究竟的に言えば、八識の念と知性は全て異なり、一定の差異性を有しており、これらの問題も全て種智の範疇に属する。意識と意根が識を転じて智と成さなければ、これらの問題を深究することはできず、容易に理解し得ないのである。
思心所は、思量性・択択性・造作性を表し、行為を主とし動きを本質とする。第八識にも思心所が存在し、動性を有する。それは一刹那も留まることなく一切の法を択択し造作する。ただしその動き方は七識の動きとは異なり、第八識の動と不動性は、一般の仏法修行者が理解するようなものではない。凡夫の情思意解では解し得ず、禅定と智慧を具足して初めて、これらの法を真実に証得することができるのである。
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