心王の運行行相は識種子の流注と運行に現れ、心所の運行行相は善心所法・悪心所法・不善不悪の心所法、及び五遍行心所法と五別境心所法に現れます。これらの心所法は識種子から引き継がれたものではなく、識種子と一体ではなく、それぞれ独自の運行行相を持ちます。しかしながら、これらは完璧に調和し、隙間なく連携します。
心王の心所法における五遍行心所法と五別境心所法の運行は、識種子の運行と流注との区別が困難です。それでも両者は一体ではなく、それぞれ異なる運行行相を持ちます。心所法は絶えず変動し、増減するだけでなく更に完善されるため、その運行は識種子の運行と若干異なり、この差異は極めて判別・観察が困難です。仮に観察できたとしても、言語化することは容易ではありません。
例えば五別境心所法中の定心所において、心王が安定して禅定が生じる時、この「定」は増加も減少・消滅もします。定心所は不断に変化するもので、この変化は識種子から来るものではなく、別の処所、例えば業種から引き継がれ、業種に随って現れるものです。もし心所法が業種と混在すれば、心所法は前世と今世に一定の連続性を持ちます。例えば前世で禅定を修めた者は、今世で少し修めるだけで定心所が容易に現れます。心所法は業種と関係がありますが、心所法自体に独立した種子は存在せず、前世の身口意行の種子と結び付いています。
また勝解心所・念心所・欲心所など、各心所法は全て変異を生じます。心所法は固定的ではなく、増減し変異するもので、これらは識種子から同時に現れるものではなく、業種と関係しながらも独立した業種を持たず、この内容は極めて深遠です。
例えば五別境中の慧心所は、環境の薫習に従って不断に増減し、変異を続けます。しかし心王の識種子は変異せず、識種そのものは永遠に清浄なままです。ただ種子の流注が集中するか分散するかの違いがあります。
識種子が流出して心王本体を形成します。心王本体が清浄なのは識種子が清浄であるためです。識種子に染汚性も善悪性もありませんが、心所法と和合して心所法の形式で運行すると、善悪・不善不悪の心行が現れます。よって八識心王の心行と心所法の心行は実は同一であり、心所法こそが心王の心行です。八識心王が運行する時、特に五遍行心所法の形式で運行します。
弥勒菩薩の『瑜伽師地論』第一章では、五遍行心所法は心王の助伴であり、心王が運行するには必ず五遍行心所法を助伴としなければならないと説かれます。五遍行心所法がなければ心王は運行できません。例えば識種子が生起する前に、必ず生起する方位を確定する必要があります。例えば眼が花の色を見る場合、意根がその処所を確定すると、識種子は勝義根の花の色塵の処へ向かい生起します。或いは音声の処所へ、勝義根の声塵が現れる処で生起し、あるいは他の意根が了別しようとする処所で生起します。よって識種子が生起する前には作意が存在し、作意とは生起の方向と位置を指します。識種子が生起する前から作意心所法は運行を開始します。心所法と心王の運行行相は完璧に融合し、表面上は心所の運行行相が現れつつ、背後に心王識種子の流注する運行行相が隠されています。両者は一致しながらも、それぞれ独自の運行行相を持ちます。
五遍行心所法の最後である思心所は、その最終的な機能作用として造作を行います。思心所の造作が完了すれば、即ち心王の造作が完了したことを意味します。造作が終わると識心は滅するか処所を移し、心所法も消滅します。この原理から、心王と心所の運行行相は一致しており、それらの運行は絡み合い、行相は心所法の運行行相に現れつつ、識種子の流注する運行行相が内在しています。これらは分離不可能な関係にあります。
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