私たちは善財童子に学ぶべきです。善財童子がなぜあれほど速く成就できたのかをよく思惟 (manasikāra/manana) してみましょう。一つの法を聞いて、深く細かに思惟 (manasikāra/manana) し観行 (vipaśyanā-caryā) すれば、まもなくそれに対応する三昧 (samādhi) の境地を証することができました。その証得の標識は、三昧 (samādhi) が現前することであり、身心の覚受が並々ならぬものであり、特殊な意義と象徴性を備えた多くの境界が現れることによって、善財童子の智慧の階層が非常に高いことを示しています。もし善財童子が禅定を修めておらず、四禅八定を持っていなかったならば、深く細かな観行 (vipaśyanā-caryā) と思惟 (manasikāra/manana) はあり得ず、様々な甚深な三昧 (samādhi) が生じることも、一つまた一つと禅定と智慧の境界が現れることも、さらには様々な神異な変化もあり得なかったでしょう。
私たちが修行において相応の階層の成就を得たならば、様々な智慧の境界が現れるはずです。たとえば七住位の明心、十住位の見性、十行位の陽炎観、十回向位の如夢観など、いずれも様々な境界が現れ、身心にも様々な覚受と変化が生じて、自らの修証の水準と階層を証明します。これは禅定と智慧の結合であり、どちらか一方が欠けてもなりません。さもなければ、学んだ法に対してせいぜい「解」の段階にとどまり、絶対に「証」することはできません。
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