思考が明瞭でない場合は、禅定が不足しているため、定を修めて思考を明晰にする必要がございます。定力が不足すると、意識の思考が一本の主軸に沿わず、散漫になり重点を失います。これは気脈が一本の線に沿って運行せず、体内を乱れ動く様に似ております。論理的思考能力に優れた人は、強大な定力によって専一を達成し、錐が一点に深く食い込むが如くでございます。定力なき者は、板が地面に平らに置かれた如く、痕跡を残さぬものでございます。
定力が充分に備わり、正見も具わっている場合は、坐禅による静中の定と合わせて定力を強化し、その後仏法を観行し、五蘊を観察すべきでございます。その後参禅に進み、心に常に参究の疑情を抱くべきでございます。まず我見を断じ、次に参禅によって心を明らかにするのでございます。
仏法を学ぶ目的は観行を為し、その後証得するためでございます。観行できないのは思考力が充分でない証であり、即ち定力が不足し、思惟修の禅定が備わっていないため、証法に大した効果を発揮しません。故に定を修めることを学び、禅定が本来の役割を果たせるようにすべきでございます。
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