衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年02月18日    木曜日     第3 回の開示 合計3110回の開示

多くの衆生は不善業を作ることに慣れております

多くの人々は日々、教義の学習に精進し、まさに兢兢業業と言えるほど努力しています。しかし時に仏・法・僧の三宝を誹謗する言説に出会うと、つい称賛してしまうことがあります。この一声の賛同が、自らが積み重ねた修行の福徳と功徳の大半を破壊し、いかに精進しようとも進歩が芳しくない結果を招きます。無明は修道を著しく遮障するものであり、この無明を懺悔する方法を講じなければ、最期に善業が大きいか悪業が大きいか、断言できません。どうしてこれほど多くの人々が自らの無明の重さに気付かないのでしょうか。なぜ自らが智慧を持たない者であることを悟らず、仏法の肝要な部分で無知無智の見解を述べようとするのでしょうか。このような修行の最終的な結果がどうなるか、なぜ考えようとしないのでしょう。悪業とは何でしょうか。三宝を誹謗することは悪中の悪であり、これに勝る悪業がありましょうか。むしろ殺生などの悪業を犯した方が、その果報はまだ軽いと言えるほどです。 

悪業を造ることは実に容易です。一言で悪業が成就し、ひいては一字で大悪業が成立し、さらには一つの表情や記号でさえ悪業が形成されます。これに何ら問題があると感じる人はほとんどおらず、どんな悪果があるかも分かりません。悪報を受ける時が来ても、その果報が何に起因するか全く連想できず、悪果の根源を思考分析しようともせず、ましてや過去に造った不善なる身・口・意の行いを懺悔することもありません。多くの人はそもそも、どのような身・口・意の行為が善であり、どのようなものが悪であるかを知りません。一般的に、自心の無明煩悩に従順に従い、不善心所に逆らおうとはせず、煩悩習気が顕現し発散するままに任せています。大多数の人の覚悟性は極めて低く、自らの心の行いに無自覚で、内省する能力も意志もなく、ただひたすらに自己に従順であり、過ちを庇うばかりです。このような従順の結果はどうなるのでしょうか。結果として誰もが苦悩と苦痛を抱え、障害に直面し、思うようにならず、命終には三悪道に堕ちて極大の苦しみを受けます。三悪道から脱した後も依然として覚醒せず、悪循環は止まず、六道輪廻は続くのです。 

実は善業を造ることも同様に容易です。一言で善業が成就し、ひいては一字で善業が成立し、さらには一つの表情や記号でさえ善業が形成されます。しかし多くの人はこのような善業を軽んじ、実行しようとしません。そのような習慣を持たないからです。日々、不善心所の現行が善心所を量・質ともに凌駕しているため、誰もが悪業が善業を上回る状態にあります。その結果、多くの人々が仏を信じ仏法を学びながらも、命終には依然として三悪道に赴き、人身を保証されません。三悪道に堕ちる比率は九割以上、いやそれ以上に及ぶのです。

——生如法師の開示
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