衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年02月05日    金曜日     第3 回の開示 合計3065回の開示

『父子合集経』講話(一一三)

仏は一音をもって法を説き、衆生は類に随って各々解を得る

夜、眠りに就いて夢を見ない時、眼・耳・鼻・舌・身・意の六識はすべて滅します。滅した後、それらはどこへ行くのでしょうか。目覚めた時、これらの識心は再び現れますが、現れる時はどこから来るのでしょうか。『楞厳経』において世尊は「一切の法は如来蔵性である」と説かれています。この父子合集経には如来蔵についての記述はありませんが、如来蔵性を説けば聞いた者の中には開悟する者も現れ、説かなくとも衆生は阿羅漢の空果を証得できます。いずれも衆生を利益するのです。仏が説かれる経典には人を証果させると同時に開悟させるものもあり、それは衆生の根器によります。小乗の根性を持つ人々は小乗の空を悟り、大乗の根性を持つ人々は大乗の空性である如来蔵を悟ると同時に、小乗の空も悟ります。根器が異なれば悟りの程度も異なり、それは法を聞く当人の智慧の程度によるのです。

仏が法を説かれる時、八万四千人の人々が法を聞いても、智慧が異なれば理解の程度も異なり、証する果位も得る果報も異なります。仏は分別心なく全ての衆生に同じ法を説かれますが、衆生の根基が異なるため得果も異なります。大悪業を造った者は悪業に遮られ、得る果はただ無根の信に過ぎません。悪業の遮障がない者は小乗の阿羅漢果を証し、根性鋭利な者は大乗の菩薩果を証得します。さらに優れた根性の者は無生法忍を証し、何地かの菩薩の果位を得ます。故に仏は一音をもって法を説き、衆生は類に随って各々解を得ると言われるのです。同じ法を聞いても理解し証得する程度は各々の衆生次第であり、仏に偏りはありません。

——生如法師の開示
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