(二十一)原文:問。若し行を縁と為すならば、彼もまた識か。設い是れ識なる者は、行を縁と為すか。答。四句に分けて答えるべきである。或いは行を縁と為すも識に非ず。識を除く所の余の支分を謂う。或いは識なりと雖も行を縁と為さず。無漏の識及び無覆無記の識を謂い、異熟生を除く。或いはまた識にしてまた行を縁と為す。後の有の種子識及び果報識を謂う。此の如き相を除き、是れ第四句なり。此の道理に由り、乃至触が受を縁と為すに至るまで、其の応ずる所に随って、四句あるべきを知るべし。
釈:問:もし法が行を縁として生じるならば、その法は識でもあるか。もしこの法が識であるならば、識は行を縁とするのか。答:この問題は四句に分けて説明すべきである。 一、行を縁とする法あるも、その法は識ではなく、識以外の他の支分である。例えば名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死など。二、行を縁としない識もある。例えば煩悩漏れの無い識、及び覆障無く記別無き識で、異熟生を除く。三、また識でありながら行を縁とするものもある。例えば未来世の有を導く種子識と果報識。四、これらの法相を除き、残りは全て第四句に属する。
この同じ道理によって、識を縁とする名色、名色を縁とする六処、六処を縁とする触、触を縁とする受などは、全てこの四句に対応することが分かる。 名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死、これらの支分も全て行を縁とするものであり、意根の行が運行した後に生じる法である。あらゆる法の運行は意根の行の結果であり、行が運行しなければ、後の一切の法は現れない。しかし行の直接の有支は六識であり、六識が生じる直接の縁は行である。名色から老死までの直接の縁は前の支分であり、行は間接の縁である。更に問題として、一旦六識に煩悩の染汚漏れが無くなれば、六識が生じる直接の縁は意根の無明行ではなく、意根の明行となる。これらは十二因縁中の法に属さず、その果報は既に十二因縁の生死輪廻を超越している。衆生もまた種子の異生性を除き、六道輪廻がなくなり、異時・異地・異界・異身に生じる現象は無くなる。これは八地菩薩以上の境地である。
種子識と果報識は共に六識を指す。種子識は今世で行を縁として業行を造り、業種を残して未来世の名色を潤す。後世の名色が生じた後、名色の上に果報六識が生じて報いを受ける。この二種の識は共に行を縁として生じる。無明の行を縁とするならば、無明の六識しか生じない。明行・無漏行を以て初めて無漏の六識を生じ、無漏の種子識と無漏の果報識を含む。これはまた意根が六識の染浄依であることを説明しており、意識単独では清浄になれず、単独で我見を断じ煩悩を断つことはできない。必ず意根に依って初めて我見を断じ煩悩を断ち、無漏に達することができる。
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