衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年02月01日    月曜日     第3 回の開示 合計3053回の開示

父子合集経講話(一〇九)

業行が滅した後、どこへ行くのでしょうか?

業行が造作された後、刹那的に滅び去ります。例えば私たちが話すとき、一つの音声が次々と現れ、この言葉が現れては滅び、次の言葉が現れてはまた滅びます。これが行為の造作です。このような行為の造作は生起した瞬間に滅し、滅してはまた生じ、刹那ごとに生滅を繰り返します。業は滅したものの、業行は種子として阿頼耶識に存在しています。一つの言葉が発せられる時、無量の識種子が生滅を繰り返し、この刹那の言語行為造作を完成させます。一つの識種子の流れが途切れれば、言語は発せられません。よって言語という法は仮の法であり、真実の法ではないのです。

業行が滅した後、どこへ行くのでしょうか。留まるべき処所は存在せず、阿頼耶識にもこれらの業行は存在しません。阿頼耶識は形も相もなく、形ある身口意の行いを保持せず、ただ形なき種子を収蔵するからです。全ての業行には行く先も来る元もありません。私たちが話す時、最初の音声はどこから現れるのでしょうか。話し声を貯蔵する場所があるでしょうか。確かに存在しません。もし存在するなら、私たちが一生、あるいは無始劫以来発してきた声はどこに存在するのでしょうか。探してみても、結局見つかるものではありません。

ある者は「声をレコーダーに録音し、業行をビデオに記録すれば、行為造作は存在する処所を得る」と言います。もしそうなら、レコーダーやビデオを分解して探してみましょう。声や行為造作がどこにあるのか、探し回っても結局声や映像は見つかりません。しかし全ての行為造作の過程、つまり意業を含むものは、あたかもレコーダーやビデオカメラのように記録されるものがあります。これが阿頼耶識です。記録された後は種子として存在し、宿命通を持つ者はいつでもこれを呼び出して観ることができます。ちょうどテレビを点けて観るように。如来蔵というこのテレビには、無始劫以来の番組がすべて失われることなく収蔵されており、宿命通を持つ者は業種が実現したかどうか、果報を受け終わったかどうかに拘わらず、これを再生することができるのです。

——生如法師の開示
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