禅定は止であり、観行は観である。この二つを合わせて止観といい、また定慧ともいう。禅定と智慧の観行は相互に補完し合う関係にあり、いかなる法を証得するにも必ず定慧を等しく保ち、止観を双運させなければならない。仏法の修証過程において、禅定は先行する方便法門であり、その役割は非常に重要で欠くことができない。さもなくば観行は乱れ、主軸を失い深く入ることもなく、法の表面的な情思意解に留まり、実質的な法を観行することができず、真実の結論を得られない。結論があったとしてもそれは意解に過ぎず、真実の観察と現量による証得ではない。
世尊が最初に弟子たちに小乗果を証得させる教えを説かれた時、理論の指導と並行して禅定を教え、弟子たちが定慧を等しく保つよう導かれた。弟子たちは禅定を修しながら思惟観行を重ね、この実践によって煩悩を効果的に制御し、思惟を緻密にし、まもなく小乗果を証得した。世尊が定と観行を同時に修する法として説かれたものに、四念処経や坐禅三昧経、禅法秘鍵経などがある。禅定によって煩悩と雑念を制御して初めて観行は正軌に乗り、理に適った真実の観行が可能となり、心が転換され、三十七道品が具足した後に初めて証果を得るのである。禅定を修さずその功徳がなければ、三十七道品も八正道も満たされず、煩悩は依然重く、心は清浄ならず、身心世界に転換が起こらず、証道の因縁が具足しない。
外道が仏陀に出会い瞬時に四果を証得できた理由は、禅定の証量によって煩悩が制御され、心が清浄となり、出離心が強固となった状態で、ただ正しい法義を待つばかりであったためである。仏陀の説法が心に入ると即座に法眼浄を得て解脱した。故に誰も禅定を修さず、労せずして果を得ようとする僥倖は仏教界に存在せず、便宜を得る所には往々にして損失が伴う。大乗菩薩の証法にも相当の禅定が必要であり、その禅定は今世と前世における小乗修行時代に培われた基礎による。大小乗の禅定に大差はなく、基礎的な禅定修行は同一である。
禅定は煩悩を制御する前行方便であり、煩悩の断除ではなく抑制に類する。初禅定に我見を断つ智慧が加わって初めて煩悩を断除、乃至断尽する。まず煩悩を抑制し悪を起こさず善を生じさせて我見を断ち、更に深く定を修め初禅を得て煩悩を断除し、心解脱の三果人となる。煩悩を断じた三四果人こそ聖人と呼ぶに相応しい。仏教では常に定慧等持によって証果を得、煩悩を断じ、解脱を得る。煩悩が重く雑念が多い時は禅定を修し難いが、世間の苦などを思惟し心を平穏にした後、定を修し観行する。観行する中で定力が増し、定力が増すほど観行は深化する。禅定と智慧は相互に補完し合うのである。
1
+1